『スイッチ』 番外編

 新しく住む街には、駅から住宅街を横切るように細い川がある。その川の両岸にはずっと桜並木が続いていて、昴はそれだけでこの街が好きになった。
「来週には満開になるかな」
 駅前のスーパーで買い物をしてマンションに帰る途中、春風に揺れる枝を見ながら昴はそう呟いた。
 桜は川にせり出すように枝を伸ばしている。あれが満開になれば、水面に桜が映ってどれだけ綺麗なことだろう。けれど残念ながらこの並木の中で花が咲いているのは、特別に日当たりが良い場所の木だけだ。その花だって一つ二つ咲いているくらいで、あとはまだ蕾だった。
「どうかな? 咲き出すと早いっていうけどな」
 隣を歩く皓介がくすりと笑う。
「何だよ」
 むっとして問いかけると、皓介は目を細めて昴を見た。
「だって、ここのとこ毎日『いつ咲くかな?』って言ってるからさ」
 そう指摘されて、昴は頬を膨らませる。
「いいだろ、別に」
「うん、いいよ。別に」
 皓介がまた笑うので、昴は面白く無い。自分より頭一つ背の高い相手を見上げて睨みつけた。
「何だよ」
「いや、俺も楽しみだからさ」
 そう言うと、皓介は視線を川へと向けた。
「ここ、満開になったら凄そうだもんな。川に桜のピンクが映って――きっと、綺麗だろうな」
 昴が考えていたことと同じことを、皓介も考えていた。そんな些細なことで、昴はとても嬉しくなってしまう。けれどそれを態度に出すのは癪だった。喜んだ顔を見せれば、また皓介は笑うのに違いないのだ。目を細めて、優しい顔で、柔らかな笑みを浮かべるのに違いない。その笑顔はまるで、昴のことを子供扱いしているみたいで――。
「そうだな」
 だから素っ気なく聞こえるような返事の仕方をしたのに、やっぱり皓介はふわりと笑うのだった。
「あー、もうっ! 何たよ! お前ムカつく!」
 苛立ちまぎれに振り上げた拳は、あっさりと掴まれてしまう。こういう時、恵まれた体格の相手が憎らしくなる。
「ごめんごめん」
 皓介は笑いながら、昴の腕を引き寄せる。
「ちょっ――」
 抵抗する暇もない。腰を引き寄せられ、そっと唇が合わせられる。柔らかく触れるだけのキスをして、皓介はすぐにその身を離した。
「おまっ……お前なっ!」
 こんな往来で何をするんだ。
 そう怒鳴りつけようとした昴を、皓介の声が遮る。
「だって――」
 皓介は笑う。
 目を細めて、口を開けて。
 嬉しそうに。幸せそうに。
「昴があんまり可愛かったからさ」
 歯の浮くようなセリフをさらりと言われて、昴はぽかんと口を開ける。恥ずかしさが込みあげてきたのは、数秒後のことだ。
「この……アホ!」
 思い切り皓介の足を踏みつけてから、昴は足早に歩き出した。後ろから皓介の声が追いかけて来るが、振り向いてなんてやらない。
 少なくとも、頬の熱が冷めるまでは――。




************
J庭で配布させていただいたペーパーのSSです。
スイッチ本編が秋の話だったので、その続きという感じで当初SSを冬の設定で書いてて、
イベント4日前くらいに「イベント当日は春だ」ということに気づきました。
そして急遽春の話を書きなおしたのでした……。