『あらざらむこの世のほかの想い出に』Sample

あれを、喰らわねばならない。
闇の中手を伸ばし、金色(こんじき)に輝く細い糸を手繰りながらセンジュは思った。
早く見つけなければ。
それは縁(えにし)の糸。あれと自分を結ぶ唯一のものだ。
昔、自分があれを気に入ってひっそりと結んでおいたものだ。呪い(まじない)の糸だから普通の人間には見えない。
あれがセンジュの傍を離れてからも、時折その糸を眺めることがあった。縁が強いうちはその糸を通して相手の感情までも見て取ることが出来る。あれに嬉しいことがあれば糸は輝きを増し、逆に辛いことがあれば糸の光は鈍くなった。最初の何年かはそ の輝きを見て楽しんだ。
しかしいつしかそれにも飽き、紐の存在をセンジュは忘れた。だから気づかなかったのだ。初めは太かったそれが、いつからか細り初めたことに。
縁(えにし)が、切れかけているのだ。
時が経ちすぎた。場所も、おそらく離れている。
何より、自分の力が弱まっている。
だからこの糸はこんなにも細くなってしまった。
口惜しいのは、儚い縁に縋らざるを得ない、今の自分だ。
早く、早く。
蜘蛛の糸よりもか細いそれを辿りながらセンジュは思った。
あれを殺し、肉を裂き、血をすすらなければならない。そうして初めて、自分は命を繋ぎ止めることが出来る。残された時間が少ないことは、よく分かっている。
だからこそ、早く。
早くあれを喰らわねばならない――。


(中略)


――センジュ。
そうだ、あの人の名前はセンジュだ。
懐かしさに口元が綻ぶ。
あの夏から二十年が経った。あれから一度も祖父母の家には行っていない。だからあの山に行ったのはあれっきりで、センジュのこともいつの間にか記憶の遠い場所に追いやっていた。
センジュという名前がどういう字を書くのか、本人は教えてくれなかった。康隆が子供だったから、説明するのが面倒だったのかもしれない。熨斗紙に書かれた『寿』という文字を見る。なんとなく、この字を使う気がした。
千寿。
彼の名前はそう書くのではないだろうか。
「――千寿」
呟いてみると、記憶の中の彼の面影にしっくりと馴染んだ。
不意に風が頬を撫でる。
「ん?」
ベランダの掃き出し窓は閉めたはずなのに、何故だろう。閉めそこねて隙間でも開いていたか。確かめようとした時、さらに強い風が室内に吹き荒れた。反射的に目を閉じる。こんな風、普通ではない。一体何が起こっているのか分からなかった。
幸い、風は数秒で収まった。康隆はゆっくりと目を開け、室内の惨状にげんなりする。折角拾い集めた包装紙がまたしても室内に飛んでいた。
「ったく、何なんだよ、今の」
ベランダを確認するがやはり窓はきちんと閉まっていた。理由が分からなかったが、ともかく部屋を片付けなければならない。念の為、ベランダの窓をロックしてから康隆は室内を振り返り――そして絶句する。
部屋の中央、ダイニングテーブルの側に人が立っていた。
白い着物、黒く長い髪。顔は伏せられていて見えない。
とっさに頭に浮かんだのは幽霊という単語だ。
康隆は今までそういうものを見たことがなかった。それにこの部屋に住んで数年経つ。今まで現れなかったのに何故突然現れるのか。しかもまだ幽霊が出るには時間が早いだろう。だいたいこういうものが現れるのは、丑三つ時と相場が決まっているのではないか。酒のせいで幻覚でも見ているのだ。そうに違いない。
ゆっくりと幽霊が顔を上げる。見たくないのに目が逸らせない。黒い髪が揺れて、何故か既視感を覚えた。
この幽霊を知っている?
いや、そんな馬鹿な。
「な……何で……」
乾いた声が漏れたのは、その幽霊の顔に見覚えがあったからだ。
黒い髪、線の細い体。白い肌。涼やかな双眸が、光の加減で金色に見えることを、康隆は知っている。
「せ……んじゅ……」
名を呼ぶと、千寿は眉根を寄せて首を傾げた。辺りを見回してから、何かを確認するように自分の手を見ている。そうしてしばらく考えこむような仕草を見せた後、康隆の目の前まで歩み寄って来た。密着するほど近くに寄られ、康隆は思わず一歩後ずさりする。
千寿は、子供の頃の記憶より随分と幼く見えた。あの頃は康隆が千寿を見上げていたが、今はその逆だ。
「康隆……か?」
千寿の問いかけに康隆は頷いた。驚きで声が出ない。
喋ることが出来るということは、この千寿は幽霊ではないのだろうか。いや、幽霊だって喋れるかもしれないのだが。もし幽霊でないのなら、何故若いままなのだ。仮に子供の頃に出会った時、千寿が二十代だったとしてもう四十を超えているはずだ。しかし目の前の千寿はどう見てもそんな歳には見えない。二十代、いや十代後半だと言われても納得するだろう。それにもう一つ疑問があった。目の前の人物が幽霊でもなく、本物の千寿だとして、どうやって室内に入った? いやそれ以前に、どうやって康隆の住むマンションを見つけたのだ。
康隆の混乱をよそに、千寿はどこか不満気に唇を曲げる。
「何故だ」
千寿の呟きに、康隆は思わず問い返した。
「え?」
何故と聞きたいのはこちらのほうだ。何故若いままなのか。何故ここにいるのか。そもそも生きているのか死んでいるのか。それら一切の説明をしないまま、千寿は面白くなさそうに呟いた。
「何故、私が康隆を見上げねばならんのだ」
康隆は呆気に取られた。難しい顔をして何かと思えば、身長のことを気にしているのか。そう思うと笑いが込み上げてくる。
「はは、何だよそれ。俺、いくつだと思ってんの? ホント、くっだらねぇ」
もう何だか細かいことはどうでもいいやという気になる。腹を抱えて笑う康隆に、千寿はますます不機嫌そうな顔になって「笑いすぎだ」と呟いた。

   ※
 
名前を呼ばれた気がした。縁の糸の繋がる先。声はそこから聞こえてくるようだった。
ああ、あの子供が呼んでいる。
センジュは薄く微笑んだ。懐かしい、と思ったのだ。これからあの子供を喰らわねばならないというのに。見つかって嬉しい、と思うよりも先に、懐かしいと思った。
それほどあの子供は特別だった。長く生きてきたセンジュにとって、人間の一生など通り過ぎる風と同じ。懐かしいと思えるくらいセンジュの心に留まったのはあの子供だけだった。だからこそ、意味がある。その生命を喰らい、自らのものとすることに。
それなのに。
康隆を目の前にした時、センジュは我が目を疑った。爪を出すことも牙を剥くことも忘れ、呆然と目の前の男を見る。あの子供は、自分の半分ほどの背丈しかなかったはずだ。何かの間違いかと思い、縁の糸を見る。しかし手にしっかりと巻きつけていたはずの糸はいつの間にかなくなっていた。糸が切れた感触はなかった。ならば消えたのか。縁が途切れたから消えたのか、たぐり寄せる糸がなくなったから消えたのか。
きっと後者だ。
この男はセンジュの名を呼んだ。ならばやはりこれはあの子供の成長した姿ということだろう。念の為に「康隆か?」と問うと、男はしっかりと頷いた――。


「本当に千寿なんだな。ああ、まだ混乱してる。酒のせいじゃないよな? 何でそんな若いんだ。てかどこから入ってきた? まあいいや。とりあえず座れよ。なんか飲むか? あ、ビールしかないんだ。いや、もしかしたらインスタントのコーヒーくらいあったかも。とりあえずそこ座ってて」
 康隆が指した椅子にセンジュは黙って腰掛けた。全く調子が狂う。康隆を喰らうつもりが、すっかり機会を逸してしまった。
――まあいい。
自分に残された時間は確かに少ないが、まだしばらくの猶予はある。
――それにしても。
相変わらずだな、とセンジュは思った。
センジュが喋らなくても康隆は一人で賑やかだ。それに鈍い。
何故歳を取らないのかなどと言われるとは思ってもみなかった。昔から薄々そうではないかと思っていたが、こいつはどこかおかしいのではないか。自分のことを本当に人間だと信じていたとは――。
いや、そもそも最初から康隆はおかしかった。センジュが山に張った結界を無視できるほどの鈍感さ。軽々と境界を飛び越えて、遊び相手に自分を選ぶような子供だ。
それにしても、あの子供がこんなに大きく育ったのか。
何やら棚の中をごそごそと調べている康隆の背中を、センジュは感慨深い気持ちで見つめた。
道理で縁の糸も細くなる訳だ。
「千寿、バウムクーヘン食べよう」
康隆は湯気のたった飲み物をセンジュの目の前に置く。得体のしれない黒い液体だ。何やら香ばしくいい匂いがしたが、口をつけるのは躊躇われた。
「丁度良かったよ。一人で食べきれる気がしなかったんだ」
蜂蜜色の菓子は見るからに柔らかそうで、センジュの興味をひいた。両手で持って、一口食べてみる。甘く優しい味が口に広がって、思わず口元が緩んだ。
「千寿って甘いもの好きだよな〜」
笑いながら康隆が言う。
「そうか?」
「そうだよ。だって昔もさ、せんべいより栗ようかん持って行った時のほうが嬉しそうだった」
そういえば康隆は会う度に菓子やら果物やらをセンジュにくれた。何やら懐かしい気持ちになる。康隆は椅子を引き寄せセンジュの隣に座ると、黒い液体を飲み始めた。あまりにも美味そうに飲むのでセンジュも一口だけ飲んでみる。そしてすぐに後悔した。苦い。苦いくせに酸い。訳の分からない味だと思った。
「千寿、とりあえずさ、お前は俺の知ってる千寿で間違いないよな?」
センジュは黙って頷いた。
「何で昔と見た目が変わらないんだ?」
「人ではないからだ」
その答えに康隆は戸惑ったようだった。
「死んでる、とか?」
「生きている」
もっとも、死にかけているのだが。
とりあえず生きているという答えは康隆を安心させたようだった。
「じゃあ次の質問。どうやってここに来た?」
「縁の糸を辿って」
言葉の意味が分からなかったらしい。康隆は難しい顔をしてしばらく考え込んでいるようだった。
「そういうものがあるのだと思えばいい」
説明しても分からぬだろうと思った。
「千寿はさ、神様とかそういうのなのか?」
少しだけ答えに困る。自分が何なのか、というのはセンジュ自身にもよく分からない。
「昔は……そう呼ばれたこともあった」
「うーん、俺、なんかすごいのと友達だったんだな」
友達。
康隆は昔もセンジュのことをそう呼んだ。本当に、この男は鈍い。そんなものではないのだと言ってやりたい。子供の頃に相手をしてやったのは、康隆がどうしても結界を超えてきてしまうからだ。仕方なく相手をしてやっていたのだ。
「じゃあ次。千寿は何でここに来たんだ?」
「それは――」
答えかけて、はたと気づく。
康隆を喰らうためにここへ来たのに、自分は何をしているのだ。菓子などもらって呑気に話し込んでいる場合ではない。
「それは、お前を――」
「ん?」
康隆は真っ直ぐに自分を見てくる。その目が、子供の時の康隆と重なる。好奇心に目を輝かせていたあの子供。体は大きくなったくせに、こういうところは変わっていないのか。
喰らわねばならないのに。
過去の思い出が、センジュを止める。
「お前に……会いに来ただけだ」
どうしてそんなことを口走ってしまったのか。
「何だよそれ」
康隆は口を開けて笑う。
「何で今さら? いや、嬉しいけどさ。会いに来てくれてありがとうな」
ぽんぽんと頭を撫でられた。
「なっ、何をする!」
康隆の手を払いのけて睨みつける。馬鹿にされたみたいで腹がたった。
「いや、なんか思わず。だって千寿、ちっこくなってるし」
「お前が勝手に大きくなっただけだろう!」
何故自分よりも遥かに年下の男に、子供扱いされなければならないのだ。あんなに小さかった癖に、生意気な。
「よし、じゃあ再会のお祝いしようぜ。千寿、なんか食いたいものあるか?」
「……焼きそば」
昔、康隆が話していた食べ物の名前を、センジュはしっかりと覚えていた。それがどんな物なのか分からなかったから、機会があれば食べてみたいとずっと思っていたのだ。
「焼きそば? そんなんでいいの?」
康隆はまた笑う。一体何が可笑しいのか分からない。
「じゃあ、ちょっと材料買ってくる。三十分くらいで帰ってくるけど、千寿も来るか?」
「いや、ここにいる」
あまり場所を動きたくなかった。体力は出来るだけ温存しておかなければならない。ただでさえ力が弱まっているのに、康隆を探すのに時間をかけすぎた。
「そっか。じゃあなるべく早く帰ってくるから」
康隆が出かけてしまうと、部屋の中はしんと静まり返った。本当にあれはうるさくて困る。
センジュはふうと息をつき、背もたれに体を預ける。目を閉じると山が見えた。
康隆と過ごした山に、かつての面影はない。人に削り取られ、山はその半分を失っていた。
あの山はセンジュの家、センジュの庭、センジュの命だ。あの場所を守らねばならない。
けれど、何のために守らねばならないのだっただろう……。





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