『さよならの湿度』Sample


 さよならという言葉を形作る。その音の一つずつ。唇の形。動き。音を発するたびに、吐き出される息の白さ。それらを鮮明に覚えている。脳みその中に刻み込まれて、ふとした瞬間に映像が再生されるからだ。繰り返し繰り返し、何度でも。
 ずっと、忘れられない。
 君がさよならと言う、その湿度――。

(中略)

 悪夢は、夜毎伊織を悩ませた。
 上沢と再会して以来ずっと、さよならと言われたあの瞬間ばかりを夢に見る。
 戸惑うように彷徨う視線。
 開いた唇から躊躇いがちに出される吐息。
 さよならと言った声――。
 時々は上沢の姿が現在のものになることもあった。過去の上沢と、現在の上沢が二人同時にさよならと言ってくることも。
 長い間あの悪夢は、昔の映像を再生するだけだった。それなのに上沢と再会して以来、バリエーションが増えたみたいだ。お陰で伊織は毎朝自分の脳みそに悪態をつかねばならなかった。こんな多様性は求めていない。
毎朝目覚めは最悪で、最悪な気分で駅に向かう。初日に分かったことだが、上沢の最寄り駅は伊織が快速に乗り換える駅だった。下手をすれば、朝から帰宅までずっと一緒にいなければならない。そんなことになれば、精神的に持たないと思った。だからそれとなく上沢が電車に乗る時間を訊いて、それよりも遅い時間に乗ることにしたのだ。
 それなのに、何故。
 ホームのベンチに上沢を見つけて、伊織は眉根を寄せた。
 どうして出会ってしまうんだ。
 いや、今ならまだ大丈夫だ。向こうは伊織に気づいていない。離れた場所で電車を待って、別の車両に乗り込んでしまえばいい。
 そう考えた時だった。上沢が不意にこちらを向く。
「あ、先輩」
 にこやかに微笑んで、上沢が立ち上がる。
 ああ、最悪だ。しっかり目が合ってしまった。今から移動したのでは不審に思われる。
 伊織は上沢に気づかれないよう、こっそりとため息をついた。
「おはようございます」
「おはよう。……お前、電車この時間だっけ?」
「いや、いつもはもう少し早い電車に乗るんですけど、先輩この駅で乗り換えだって言ってたのに、全然出会わないから。今日はちょっと待ってたんです」
「馬鹿かお前、それで俺と会えなかったらどうするつもりだったんだよ。遅刻する気か」
 思いっきり、眉間に皺を寄せて言ってやった。会いたくないと思っているのに、こんな風に待たれたりしたら困る。
 けれど、「待っていた」という言葉には胸の奥が擽られた。高校時代の自分なら、嬉しくてたまらないはずだ。今だって、気を抜いたら唇の端が緩んでしまいそうになっている。
 やって来た快速電車に乗り込みながら、今度は遠慮なしにため息をついた。上沢のことを、どう受け止めたらいいのか未だに分からないでいる。
 好きだった気持ちは、卒業式のあの日に壊れたはずだ。思い出したくもないことを夢にみてしまうのは、上沢が傍にいるからで――。
 だから上沢の存在は、伊織にとって忌まわしいはずだ。
 それなのに時々、自分の中の柔らかい何かが、嬉しそうに震えてしまう。まるでまだ好きなんだとでも言うみたいに。
「――っと!」
 ぼんやりとしていたから、電車が駅に着いたことに気が付かなかった。人の流れに押し出されそうになる。伊織たちが下りるのは、もうひと駅向こうだ。
「先輩」
 上沢の腕が伸びてきて、ぐいと引き寄せられた。
「どうしたんですか、ぼうっとして。寝不足?」
 体を密着させて、上沢が言う。声は少し笑っているようだった。
「うるせーよ」
 誰のせいだと思っているんだ。
 電車の揺れにタイミングを合わせて、足を踏んでやろうか。そんな考えが脳裏をよぎったが、伊織は実行しない。一応、今助けてもらった恩もある。
「先輩って、大人しそうな顔して、結構口悪いですよね」
 すぐ近くで聞こえる上沢の声は、満員の車内に配慮してか低く囁くようだ。聞きなれないトーンの声に、伊織の体温がほんの少し上昇する。ああ、忌々しい。
「余計なお世話だ」
 大人しそうな顔で悪かったな。どうせこっちは身長も体重も顔面偏差値も平均値だ。恵まれた体格のお前と一緒にするな。
 腹の底で悪態をついて、伊織は口をきつく結ぶ。体が密着して、さっきから心臓の音がうるさい。だから心の中で上沢のことを罵り続ける。けれど、それも長くは続けられなかった。上沢には、本当は嫌なところなんてないのだ。気難しいお局様を、出社初日に懐柔したくらい人当たりがよくて、立ち居振る舞いは新入社員とは思えないほど堂々としている。教えたことは素直に実践するし、仕事の覚えもよかった。
 だからこそ、伊織は腹立たしい。いっそ仕事が出来ないやつなら良かった。それなら自分の手には負えないと言って、教育係を下ろしてもらったのに。
 カーブで電車が大きく揺れる。捕まる場所がなくて、伊織はとっさに上沢のスーツを掴んだ。
「大丈夫ですか?」
 上沢が伊織の背中に手を回す。しっかりと支えてくれるのは有難いが、居心地が悪い。
 伊織は本日三回目のため息をつく。
 さっさと駅につけばいい。
 電車に揺られながら、そればかりを願った。


戻る。