さよならの湿度 番外編

 走ることは、簡単だ。
 西原伊織はそう思う。
 ただ、手足を交互に動かしていればそれでいい。
 より早く走る為には色々と考えなければならないこともあるが、とりあえず走るだけなら子供にだって出来る。
 けれど、跳ぶことはどうだ。
 助走をつけているとはいえ、体のバネだけで人間はあんなに高く跳べるものなのか。
 上沢龍樹が二メートルのバーを軽々と飛び越えて、背中からマットに落ちる。伊織の身長よりも遥かに高いバーは、上沢にとってはウォーミングアップ程度の高さなのだろう。彼の背中とバーの間にはまだ数センチの余裕があった。
「今ちょっと俺、踏切甘かったですね?」
 コーチに向かってそんなことを言っているのが伊織の耳に届いてくる。
 踏切が甘くてあれかよ。
 伊織はあの半分の高さだって跳べそうにない。
 どうしてあんなに簡単そうに跳べるのだろう。
 バーに対して弧を描くように助走する。踏み切り、体を捻り、反らし、あっという間にバーを越えマットに吸い込まれていく。
 足の裏に強力なバネでもあるか、肩甲骨の辺りに人間の目には見えない羽根でもついているんじゃないのか。
 そんな馬鹿げた妄想を抱いてしまうくらい、上沢は軽々とバーを跳び越えていた。
 上沢が記録係を交代する。伊織は視線を外して、靴紐を結び直した。
 何だか最近、気がつけば上沢のことを目で追っている気がする。
 確かに上沢は一年の中ではよく跳ぶ方だ。けれど部内にはもっと高く跳べる選手がいる。二年の磯上や、三年の山内がそうだ。選手としての能力は現段階では彼らの方が上だし、入って来たばかりの一年生より、彼らが跳ぶ場面の方を多く目にしているはずだった。けれど磯上や山内を目で追ってしまうということは一度もなかった。
 誰がどれだけの高さを跳ぼうと関係ない。
 競技種目が違うから特別話すこともないし、他人の記録なんかどうでもよかった。勿論大会で好成績を残せば同じ陸上部員として嬉しかったけれど、選手個人に興味を抱いたことはなかった。
 伊織には自分の走るレーンと、その先のゴールしか見えていなかったのに。
 どうして今は上沢のことが気にかかるのだろう。

『それって好きだからじゃない?』

 不意に、少女漫画のセリフが頭の中に浮かんできた。
 昨日妹が無理やり押し付けてきた漫画だ。主人公の友達が、クラスメイトのことが妙に気になると言った主人公に対して言ったセリフ。

『だって私なんてあいつのこと全然気にならないもん。どうでもいいっていうか、興味ないっていうか。そんなことより来月出る新作のマニキュアの方が気になるもん』
 だからあんたはあいつのことが好きなんだよ、と彼女は続けた。

 いやいやいや――。
 伊織は変な妄想を振り払おうと頭を振った。
 何でここであのセリフを思い出すんだ。
 好きとかそういうやつじゃないから。
 何か目につくっていうだけだから。
 だいたい好きとか気持ち悪いだろ。相手は男だぞ。
 そもそも状況が違う。
 あの主人公は最初からクラスメイトに好意を持っていたじゃないか。どうして恋心を自覚しないのか、読者はやきもきしたはずだ。そこにあの友達のセリフがあったから、よく言ったと伊織は思った。
「あんな鈍い主人公と一緒じゃないぞ」
 小声で呟いてから、スタートラインに立つ。体の力を抜いて、二三度飛び跳ねた。体が数センチ宙に浮き、すぐに地面に着く。体のバランスを整える為のおまじないだ。
 上沢はこの何倍もの時間、空中に浮いているのだと思うと、不思議な気持ちになる。
 跳ぶのは、どんな感じなんだろう。
 気持ち良いのか、楽しいのか、怖いのか。
 訊いてみたいけれど、そんな機会はたぶんない。
 伊織はスタートラインに手をつき、足の位置を決めた。
 上半身に重心を置き、頭をぐっと下げる。
「よーい!」
 マネージャーの声で腰を上げる。
「どん!」
 右足で思い切り地面を蹴る。同時に両手で地面を押す。体が一つのバネになったイメージだ。
 いいスタートが切れた。
 後は速度を殺さないように手足を動かすだけだ。
 シンプルでわかりやすい。
 百メートル先のゴールまで駆け抜けるだけ。
 何も考えない。
 昨日読んだ少女漫画のことも、上沢のことも、何も考えない。
 腕を振り、足を動かすだけ。
 走ることは、簡単だ。