『ルリユールの甘い菓子』Sample

商店街の日焼けしたアーケードは、春の日差しを夕日色に変える。恵一はその柔らかな色彩が好きだった。どこか懐かしさすら感じさせる光の欠片。それを見ると心が穏やかになる。
土曜の午後といえば一番商店街が賑わうはずの時間帯だが、駅前に出来た大型スーパーの影響か、通りを行きかう人はまばらだ。確かに新しいスーパーの方が品揃えはいいのかもしれないが、恵一の買い物は商店街で十分事足りる。客の減りは店主にとってはいい迷惑だろうが、人ごみの苦手な恵一にとっては喜ばしいことだった。それに、子供の頃から通い慣れた商店街には愛着がある。薬局の前の色褪せた人形。パン屋さんからただよってくる甘い香り。それは何年も変わらない景色だった。
その商店街のアーケードが途切れた先、クリーニング屋さんの隣には、謎の図書館がある。
 『窟屋(いわや)近代図書館』
 薄汚れた看板には確かにそう書かれていた。
ところが開館時間や休館日などは一切書かれていない。恵一自身、この図書館が開いているのを見たことがなかった。金属が絡み合い優美な曲線を描く門扉には、似つかわしくないほど大きな南京錠が掛けられている。それは他者の侵入を頑なに拒んでいるかのように思えた。
「昔は綺麗だったんだろうけど……」
ポーチを支える円柱はギリシャ風の立派なもので、いかにも西洋館といった風情を醸し出している。瓦葺の屋根だけが和風だったが、それも何故か馴染んで見えた。屋根に設置された風見鶏の所為かもしれない。もっとも、その風見鶏は錆ついているのか、どんな強風が吹こうとも風向きを教えることはなかったし、建物中に蔦が絡まっているような状態だったから、元が立派な分余計に薄気味悪い。門から建物までの僅かな距離も雑草に覆われていているせいか、どうひいき目に見てもお化け屋敷のような雰囲気だ。実際、幽霊が出るという噂も後を絶たない。
誰も中に入ったことのないその図書館は、いつの間にか『お化け図書館』と呼ばれていた。
だが恵一が商店街に行くたび、用もないのに図書館の前を通って中を覗き込むのは、幽霊が見たかったからではない。ただ純粋に、そこにどんな本が置いてあるのか興味があったからだった。
その謎の図書館は、自分が生まれるずっと以前からそこにあって、その門は長いこと閉ざされたままなのだという。
 だとしたら、中にはどんな本が並んでいるのだろう。
 恵一は古い本の匂いが好きだ。
ページを捲る度に、そこに閉じ込められていた時間が動き出すような気がするから。
門扉に手を掛け、つま先で立つ。出来るだけ奥まで見ようと首を伸ばして、あと10センチ身長が高ければ門扉をよじ登って中に入れたかもしれないと考えた。
中学の頃、高校に入れば伸びるはずだと信じて疑わなかった身長は、高二になった今でも163センチのままだった。癖のない黒髪や大きすぎる目も災いして、クラスの女子には可愛いとまで言われる始末。
男が可愛くてどうする。それは女の子の為にある言葉だろうと言い返したら、女性蔑視だと言われた。可愛いと言われて傷ついた恵一のプライドなど、完全に無視である。
身長のことを考えると少し気が滅入った。小さなため息をついて踵を地面に下ろす。
敷地内に入れたところで建物の中に入れるわけではないし、第一この図書館の中に未だに本が保管されているとして、それが読める状態かどうか分かったものではない。
恵一はそろりと門扉を撫でて立ち去ろうとした。その時、南京錠が音を立てて落ちる。
「えっ?」
もしかして壊してしまったのかと慌てて拾い上げてみたが、そんな様子もない。どうやらU字型のツルがきちんと差し込まれていなかったようだ。
「なんだ……」
 ほっとして南京錠を掛けなおそうとした恵一は、ふとその指を止めた。
 何も馬鹿正直に鍵を掛ける必要はない。折角のチャンスだ。少し中を見学させてもらってからでもいいだろう。
 門扉を押すと金属が軋む独特の音がした。その音の大きさに首をすくめながら、素早く体を中に滑り込ませる。
心臓が、早鐘を打っていた。片手に南京錠を握りしめたまま、洋館のポーチまで辿り着くと、その柱にもたれて静かに息を吐く。門からポーチまで、たった数メートルを少し早足で歩いただけなのに、随分と遠く感じた。南京錠を握りしめていた手は、じっとりと汗をかいている。掌にうつった金属の匂いに、恵一は鼻をしかめた。南京錠をジーンズの尻ポケットに捩じ込んで、とりあえず建物を一周しようと歩き出す。
外側から見ていた時も相当な薄気味悪さだったが、近くで見ると蔦に建物が食われているようにさえ感じられる。元は白であっただろう外壁は、今や薄汚れて灰色にしか見えない。窓はかろうじて蔦の侵食から逃れていたが、厚いカーテンが掛かって中をうかがうことは出来なかった。窓枠に手を掛けてつま先立ち、なんとか隙間から中が見えないかと鼻先を窓に押しつけて――微かな違和感を覚える。
窓が汚れていない。
 長い間放置されていた建物だ。埃をかぶっていて当然のはずなのに、少しも汚れていないのは不自然ではないか。カーテンの細やかな刺繍まで見えるというのはどういうことだろう。
「管理人さんとか、いるのかな?」
 それにしては、お化け図書館の外観は手入れされているようには見えない。
 ポーチまで戻って呼び鈴を探したが見つからなかった。仕方なく扉をノックしてみたが、中からの返事はない。扉は分厚そうだから、たとえ中に人がいたとしても聞こえていないのかもしれなかった。声を掛けてみようかとも思ったが、はたしてこの場合、何と言えばいいのだろう?
仮にも図書館だ。「ごめんください」と言うのは変だし、かといって「こんにちは」では何だか間抜けな気がする。
恵一は扉の取っ手を掴んだまましばらく迷っていたが、折角のチャンスを無駄にするのは馬鹿らしいと、思いきって手に力を込めた。扉は何の抵抗もなく開いて、恵一を中に招き入れる。
「わ、入れた」
 辺りをきょろきょろと見渡しながら、奥に向かって声を掛けた。
「すみませーん……管理人さーん」
中は予想に反してこまめに掃除がされているようで、お化け屋敷といった感じではなかった。玄関ホールは細長く、一番奥には大きな扉がある。玄関から入ってすぐの両側にも扉はあったが、それとは比較にならない立派さだった。
 吸い寄せられるように、その扉の前に立つ。
木製の大きな扉だ。黒く重厚な風合いのその扉には、アザミの葉のような彫刻が施されている。
「すごい……」
 呟いたきり、そこから動けなくなった。扉を開けることも、そこから離れることも出来ずに、ただ掌で扉の表面を撫でる。
「どちら様かな?」
「うわっ!」
不意に声を掛けられて、叫び声を上げてしまう。
奥の階段から姿を現した声の主は、180センチ以上はあろうかという長身だった。凛と伸びた背筋、柔らかなウェーブのかかった髪は明るい栗色。すっと通った鼻梁に、切れ長の目は飴色。
 男はその目を眇め、品定めでもするように恵一を見た。
「どちら様かと、聞いたんだけどね」
 低い声には幾分かの棘が含まれている。
「あ……ええと、管理人さんですか? オレ、門のとこの南京錠が落ちてたんで、持って来たんですけど」
 慌てて取り出した南京錠を、男は無言で受け取った。
「……表のものだな。普段は裏から出入りしているから気付かなかった。ご親切に、どうもありがとう」
 男の口調は固いままだった。それはそうだろう。どう見ても恵一は不審者だ。
「いえ、どういたしまして。あの――」
 この場から立ち去った方がいいということは分かっている。けれど動くことが出来なかった。少しでいいから中の本を見てみたい。
「まだ、何か?」
 帰る様子を見せない恵一にいらついたのか、片眉だけを上げて男が問いかけてくる。芝居がかった仕草が妙に似合っていた。長身の男は一瞥するだけで恵一に威圧感を与える。
「ここって、図書館ですよね。オレ、ちょっと中見たいんですけど、駄目ですか?」
怯みそうになる心を奮い立たせ、やっとの思いで口にした言葉に、男はため息交じりに答える。
「雑誌や漫画みたいな、君の好きそうなものはないよ」
「オレ、そういうのばかり読んでるわけじゃないです」
 嘲るような口調に少しむっとして恵一は言い返した。
「童話や小説も好きだし、何より本が好きなんです」
 恵一だって漫画を読まないわけではない。毎週欠かさず買っている雑誌もあるし、気に入れば単行本だって買う。
紙の上で展開する物語が好きなのだ。絵か活字かというのは表現の違いであって、物語の価値には関係がない。だからどんな本でも、 最初の一ページを開く時は胸が高鳴った。
この図書館を外側から眺めていた時、それに似た高揚を感じていたのだ。
誰も入れない図書館の中に、まだ自分の知らない物語があって、ページを捲られるのを待っているような――そんな気さえしていた。
「昔からずっと、ここにどんな本があるのか気になっていたんです。何かの専門書ばかりが集められているっていうのなら、理解出来ないかもしれないけど……。もしそうじゃないなら、少し見せてもらえませんか? お願いします」
「本が好き、ね」
男は口元に手をあてて何かを考えているようだったが、しばらくして「仕方ないな」と呟いた。
「これを届けてもらった恩もあるしね」
 南京錠を手に、男は微かに口元を綻ばせる。
「見せてもらえるんですか?」
 ありがとうございます、と言うより先に男の表情がまた厳しいものに変わった。
「だが、図書館だったのは祖父の代までだ。今は僕の住居兼アトリエ。だから君に書庫を見せるのは構わないけれど、人には言わないで貰えないか。――あまり、騒がしくされるのは好きじゃない」
「アトリエ……」
 管理人ではなかったのか。
「画家、とかですか」
 それくらいしか仕事場をアトリエと呼ぶ職業が思い浮かばなかった。
「いや――。それより、約束して貰えるのかな?」
 恵一は慌てて首を縦に振る。
「勿論です」
 男はそれを聞くと静かに頷き、スラックスのポケットから鍵を取り出した。持ち手の部分がクローバー型になっていて、どこかクラシカルな印象を受ける。
 男はその鍵を目の前の扉に差し込む。ゆっくりと回転させると、錠の開く音がロビーに響いた。
 扉を押し開く男の背中に向かって恵一は問いかける。
「あの、お仕事。何をされてるんですか?」
 観音開きの扉を開け放ち、男は恵一の方を振り返った。
 そして静かにその名を口にする。
「ルリユール」
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