『ラプラスの悪魔 後編』Sample


※前半部分省略


新しい玩具が楽しめるのは大体が最初の一週間だ。日が経つにつれて興味が薄れていき、ひと月も経つ頃には部屋のどこに置いたのかも思い出せない。
 どんなに優れた音楽も、名作と呼ばれる書物も、何もかも退屈だ。
 音楽は一度聞けば飽きる。書物も、結末を知ってしまえば二度と手に取ることはない。
 だから茉莉緒は、いつも新しいものが欲しかった。随分と長いこと、この学院に閉じ込められているのだ。常に新しい刺激を求めていないと、退屈で死んでしまう。
 神父は、面白かった。
 まさか神職についている人間が、体を売るだなんてことを了承するとは。
 茉莉緒は、神父は逃げるだろうと思っていたのだ。勿論、簡単に逃がすつもりはなかった。最大限に悩ませて、その果てに逃げるという決断を下した神父を嘲笑ってやろうと思っていた。
 ほら、見たことかと。
 どれだけ清廉な振りをしていても、所詮は人。血の繋がらない親よりも、我が身のほうが可愛かったのだろうと。
 血が繋がっていてさえ、茉莉緒の父は自分の立場を守った。噂を消すことよりも、茉莉緒を自分から遠ざけることによって。
 だから神父もそうするものだと思っていた。
 ところが彼は逃げなかった。どんな無体を働いても、次に求めた時に断ることはなかった。青ざめた暗い顔をして、嫌だという言葉をギリギリで飲み込んでいる。そのくせ、いざ事を始めると声を震わせて喜んでいた。その落差が茉莉緒を楽しませる。
 それに、思っていたよりも神父は頑丈だ。壊れない玩具は久しぶりで茉莉緒はこのところ上機嫌だった。
 澤村以外の人間を近くに置くのはいつ以来だろう。
 この学院に入れられてすぐ、友人と呼べる生徒が居た。茉莉緒の家柄に気後れすることもなく、屈託のない笑顔で話しかけてくれる彼の存在が、茉莉緒は嬉しかった。同じ年頃の友人というものを初めて持てたのだと思った。
 彼は、夏までもたなかった。
 ある時から表情が陰り、茉莉緒に対して余所余所しくなり、梅雨入りの頃に彼は学院を辞めて故郷に帰った。何故かは知らない。
 またか、と思った。
 悪魔の呪いが、彼の身に降り掛かったのだろう。
小鳥や、母のお腹の中にいた赤ん坊のように死にはしなかった。女中のように怪我をすることも、猫のように事故に遭うことも。
けれど確実に何かが、彼の身に起こったのだ。だから茉莉緒は、初めて出来た友人を失った。
それ以来、茉莉緒は友人を作ることを諦めた。呪いは解けないのだ。どうせ失うのなら、最初から持たない方がいい。
傍にいるのは澤村だけ。
それは平和で安定して――、退屈だった。
「茉莉緒様、随分と楽しそうですね」
 紅茶を差し出しながら澤村が言う。
「お前もな」
 カップを受け取って、茉莉緒は笑った。こいつだって、ここ最近楽しそうなのだ。茉莉緒には分かる。
「そういえば、これが届いていましたよ」
 澤村は表情を変えずに封筒を差し出してくる。
「上手くごまかしたね」
 封筒の中身は茉莉緒が頼んでいた書類だ。
「うん、ちゃんと揃っているな」
「夕方にでも届けに行ってきます」
 封筒を受け取ろうと手を伸ばした澤村に向かって、茉莉緒は首を振った。
「いや、これは僕が届けるよ」
 澤村は意外そうに眉を上げる。
「何だ、お前が行きたかったの?」
「いえ――、午後からは雨になるようですから、お気をつけ下さい」
 澤村が言った通り、午後を少しすぎたあたりから日が陰り始め、三時を回る頃には細い雨が降り始めた。
 茉莉緒は教会へと続く小道を歩く。
 他の生徒はまだ授業を受けている時間だが、茉莉緒には関係がない。雨は周囲の音を飲み込むように降っている。とても静かで、心地よかった。
 教会は両開きの扉の片側が開いていた。こんな雨の日に空気を入れ替えているのか。それとも、やって来ることのない信者を待っているのだろうか。どちらにせよ、茉莉緒にとっては自分で扉を開ける手間が省けたという以外の意味はなかった。
 神父の居場所はすぐに分かった。祭壇の前に跪いて、何かを一心に祈っている。その背中を見つめながら、茉莉緒は一歩教会の中に入った。石の床に靴音が響く。それが聞こえないはずがないのに、神父は振り返らなかった。少しムッとして、茉莉緒はわざと踵を床に打ち付けてみる。それでも神父の肩すら動かない。それほど祈りに集中しているのか。
 そこまで熱心に何を祈っているのだろう。
 祈りとは何だ。
 神とは何だ。
 茉莉緒にはそれが分からない。
 この男は何を信じているのだろう。
「神父様」
 真後ろに立って呼びかけると、ようやく神父が振り返った。
「えっ……あの、どうして、ここに」
「教会は誰にでも開かれているのじゃなかったの? それとも、僕だけは駄目だとか?」
 意地の悪いことを言うと、神父はすぐに否定した。
「そんなことはありません。少し驚いただけです」
 取り繕うような笑顔はどこかぎこちない。
「それで、今日はどのようなご用件で……。あの、もしもそちらのお部屋へ伺うということでしたら――」
「いや、今日は違うよ」
 茉莉緒は封筒を手渡す。
「これ、神父様に」
「私に……?」
 神父は怪訝な表情を浮かべながら封筒を開けた。中の書類に目を通し、驚きに満ちた顔で茉莉緒を見る。
「まだ病院決まっていないんでしょ? そこの病院、うちの主治医の病院。話は通してあるから、すぐに入院させられるよ。一応、書類に署名だけはしておいて」
「あの……何と言ったらいいか……ありがとうございます」
 封筒を胸に抱くようにして、神父は深々と頭を下げた。
「別に、たいしたことじゃないよ」
 茉莉緒は居心地の悪さを感じて、わざと素っ気ない返事をする。ここまで感謝されるとは思っていなかった。
「それに、費用は神父様が出すんだよ? 安心して。足らなければいつでも買ってあげる」
 茉莉緒が呼ばなくても、神父が自分からやって来ればいいのだ。神父は少し困ったように笑う。
「それは……その、助かります」
 望んでいた返事のはずなのに、茉莉緒はどこか面白くない。神父の態度の何かが不満で、けれどそれが何か分からない。胸の中に湧き上がる感情の正体が見えず、茉莉緒は不安になった。
「じゃあ、僕はこれで」
 早く帰ろう。そして澤村に酒を用意させよう。酒と一緒に、この気持ちの悪さも飲み下したい。
「あの……!」
 帰ろうとした茉莉緒を、神父が呼び止めてきた。
「良かったら、お茶でもいかがですか?」
「お茶」
 神父が、茉莉緒とお茶。
 何という間抜けな響きだろう。
 受ける理由はない。それに今欲しいのはアルコールだ。
 そう考えているはずなのに、口をついて出たのは全く別の言葉だった。
「美味しいんでしょうね?」





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