『ラプラスの悪魔 前編』Sample


 ――不幸には、慣れている。
 目を伏せて、幸哉はそんな風に考えた。
 思えば自分の人生は、その始まりからして幸福とは言い難いものだった。教会の前に捨てられていた子供。それが自分だ。
その日のことは勿論、記憶にはない。けれど何度も聞かされたから、情景はまざまざと思い浮かべることが出来る。
 空気の乾いた、冬の朝のことだった。
 朝の祈りを捧げた後、神父は掃除をする為に外へ出た。教会とその周辺の掃除は赴任した時からかかさずに行っている。時刻は午前六時を少し過ぎたところ。東の空がようやく白み始めたばかりだった。箒とちりとりを手に教会の門まで出て、神父は小さく息を飲む。
「なんてことだ……」
 彼は箒を放り出し、門前に置かれた籠を拾い上げた。籠の中には赤いショール。それに包まれた小さな赤ん坊は、泣き声を上げる元気もないように見えた。慌てて子供の頬に触れようとして、彼は一度思いとどまった。自分の冷たい手で触れて、子供に残された僅かな温もりすらも奪ってしまうのではないかと思ったのだ。神父は息を手に吹きかけてから、赤ん坊を驚かせないように慎重に触れた。その途端、赤ん坊が目を開ける。泣いたわけではない。ただ、神父を見た。
「君の目はとても美しい色で――」
 その話をする時、神父は必ず優しく微笑んでこう結んだ。
「きっとこの子には天主様に愛されているのだと思ったんだよ」
 本当に、そうだろうか。
 幸哉は自分の境遇を考えて、そんな疑問を何度も抱いた。迷い、不安になる度に聖書を読み、自分の信仰心と折り合いをつけて今まで生きてきた。
 けれど、本当は違うのではないか。
 むしろ自分は天主様に疎まれているのではないだろうか。そうでなければ、説明がつかないのではないか。自分の人生がこんなにも不幸であることの説明が――。
 いや、そんなことは考えてはいけない。天主様を疑うなど、大きな罪だ。そう、それに天主様は人に試練を与えるもの。人がそれを乗り越えられると信じて下さるから、試練を与えられるのだ。
 だから幸哉は不幸などではない。そのはずだ。
「神父様ァ? 聞いているの?」
 床に跪く幸哉の肩を、少年が思い切り蹴りつけてくる。床に倒れこむことだけはどうにか耐えて、幸哉は相手を見た。
 癖のない黒い髪、雪のように白い肌。少女かと見間違えそうなほど大きな瞳は、長い睫毛で縁取られている。優しげな顔立ちの少年は、唇を僅かに釣り上げて微笑んだ。柔らかな笑みは美しい。
 美しいが、邪悪である。
「どうするか、決めた?」
 その問いにすぐに答えることは出来なかった。勿論、幸哉に選択の余地などない。しかしそれでも、受け入れるのには勇気がいった。唇を開き、何度か返事をしようと試みる。けれど最後の一線がどうしても越えられず、結局は口を噤むということを繰り返していた。
「澤村」
 しびれを切らしたのか、少年が幸哉の背後に向かって声を掛ける。それと同時に、後ろから髪を乱暴に掴まれた。俯いていた顔を無理やり上げさせられる。
「神父様」
 澤村と呼ばれた青年は、低い声で幸哉の耳元に囁きかけた。
「早く決めていただけませんか。……俺としては、頷かれる方が懸命だと思いますがね」
 澤村は幸哉の髪から手を離すと、乱暴に背中を押した。少年の足元に身を投げ出す格好になる。最早、迷う時間すら残されていないのだと知って、幸哉は心の中で神に赦しを乞うた。
「分かり……ました」
 少年が面白そうにクスクスと笑う。
「じゃあ、決まりだな」
 少年はしゃがみ込み、幸哉の顎を上げさせると無邪気な顔で言う。
「僕が勝つか、神様が勝つか――、楽しみだね」
 この恵まれた子供にとっては遊びなのだろう。幸哉は薄く微笑んで見せた。負けはしないと自分を鼓舞する為に。
 悪魔め、と心の中で呟いた。
 どのような試練でもきっと乗り越えて見せる。信じるものも、守りたい場所も、自分にはあるのだから。


※中略


足早に告解室に向かい、神父の小部屋に入った。信者側の部屋とは薄い壁で仕切ってあり、小さな窓が設えてある。窓の大半は鉄製の黒い格子で覆われていて、室内の乏しい明かりでは相手の顔は見えない。
 一つ呼吸を置いてから、幸哉は格子の向こうの相手に語りかけた。
「天主様の声に心を開き、慈しみに感謝して汝の罪を告白しなさい」
「神父様……僕は」
 相手の声に聞き覚えがあった。
「罪を犯してしまいました」
 柔らかく耳に残る、幼さの抜けきらぬ声。
 これは、寮代表の挨拶をした少年ではないのか。
 そう考えてしまって、幸哉は自分を恥ずかしく思った。相手に対する詮索をするなど、神父失格だ。
「罪を告白し、悔い改めれば天主様は全てを赦してくださいます」
 続きを促すと相手は微かに笑ったようだった。
 何故笑う。
 幸哉の言葉に安堵したということだろうか。それとも、別の意図があるのか。
「言い間違えちゃったかな」
 少年はクスクスと笑った。幸哉は眉間の皺を深くする。少年が何を言いたいのかが分からない。
「僕は生まれながらに罪を背負っているみたいなんです」
「それは――、それは人は皆そうです」
 しかし天主様を信じ、清く正しく生きていれば赦される。天の国に近づくことが出来る。
「神父様、僕は悪魔の子らしいのです。生まれた時から呪われていて、それは今でも継続している」
「……そんなことはありません。貴方は悪魔の子などではない。人は皆、等しく天主様の子供です」
 幸哉は憤った。生まれながらにして呪われているなどと、誰がこの少年に言ったのだろう。そんな心ない言葉の所為で、彼は夜に忍んで告解室に来るほど思い悩まされているのだ。
「心配はいりません」
 幸哉は格子の下側の空間から、聖書を差し出した。自分からそれに手を置いて、少年にも同じことを求める。
「共に祈りましょう」
少年が軽く頷くのが分かった。彼はゆっくりと聖書に手を伸ばす。薄明かりの中で、その指先だけが妙に白く映った。少年の白い指は聖書の上に留まらず、幸哉の手を掴む。
「あ、あの……聖書の上に置くだけで良いのですよ」
 少年は返事の代わりに幸哉の手を一層強く握りしめた。
「神父様」
 手にかかる力とは逆に、静かな声で少年が言う。
「僕を救ってください」
「勿論です」
 幸哉は即答した。実際に彼を救うのは天主様であり、自分にはその手伝いをすることしか出来ないのだが、出来うる限りのことをしたいと思った。しかし少年の次の発言に幸哉は違和感を抱く。
「僕に……天主様を信じさせてください」
 日本ではまだ基督教の信者は少ない。この少年も信者ではないだろう。けれど、少なくとも救いを求めてやって来た者は天主様を『信じたい』あるいは『信じよう』と思っているのだと思っていた。『信じさせて欲しい』というその言い方が、奇妙に思えた。
「……勿論、です」
 幸哉は戸惑いながらも、先ほどと同じ応えを返す。それが可笑しかったのか、少年はふっと笑ったように思えた。
「また来ます。おやすみなさい、神父様」
 少年はすっと手を離し、告解室を出て行った。幸哉は彼の気配が完全に消えるまで待って、それから大きな息を吐く。子供とは思えない、静かな威圧感のようなものを持っている生徒だった。
「……何だったんだろう、今の……」
力が抜け、椅子にもたれ掛かる。幸哉はしばらくその場から動けなかった。

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