春の在処。

 振り子時計が午後二時を告げる。窟屋(いわや)は作業の手を止め、顔を上げた。そうしてみて初めて、窓から入ってくる日差しの柔らかさに気がつく。
そろそろ桜が咲いている頃だろうか。それとももう散ってしまっているのだろうか。大体あの花は何月に咲いて何月に散るのだろう。
自宅と仕事場が同じなので、窟屋はどこかに出かけるということがほとんどなかった。生活に必要なものは自宅のすぐ隣にある商店街で事足りてしまう。だから花の見頃なども分からない。ただ、春といえば桜なのだろうと思うだけだ。そういえば、近頃家に出入りするようになった高校生が、サツキの花がどうとか言っていた。サツキと桜ではどちらが先に咲くのだろう。今まであまりそういったことに興味がなかったから、窟屋には分からなかった。
「え? 桜、ですか?」
 日課になりつつある午後のお茶の時間。まだ桜は見られるのかと訊くと、恵一は困ったように微笑んだ。
「んー……北海道とかならまだ見られるかもしれないけど。この辺はもうとっくに散ってしまってますよ」
「そうか」
 短く答えて、窟屋はコーヒーを飲む。
「だって、もう五月ですし」
 桜は春中咲いているというわけではないらしい。
「どうして急に桜なんですか?」
 春だから、と言うと恵一は笑った。
「窟屋さんって……時々すごく、面白いこと言いますよね」
 彼はくすくすと笑いながら、ミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーを飲む。あんなに甘そうなものをどうして好んで飲めるのか、窟屋には分からない。無言のままじっと見つめていると、視線に気づいた恵一が気まずそうに目を伏せた。たぶん、彼が笑ったことで窟屋が気分を害したと思ったのだろう。別にそんなことはなかったのだが、面白いのでそのまま見つめ続けた。恵一は恐る恐る目を上げて、そして今度は真っ赤になって俯いてしまう。
 ――ああ、なんて面白いんだろう。
 この少年といると本当に飽きない。窟屋は自分の口元が自然と緩んでしまうのを感じていた。このままでは可哀想だからお菓子をあげよう。窟屋自身は甘いものを好んで食べはしない。けれどこの少年が来るようになって、時々買うようになった。お菓子をあげると本当に嬉しそうに食べるのだ。
 商店街で買ったカステラを切り分けて出してやると、恵一はぱっと顔を輝かせた。
「これって明月堂の巻きカステラですよね! オレ、これ好きなんです」
「そうか、なら沢山食べなさい。おかわりが欲しければまだあるから」
「はい、いただきます!」
 皿に添えていたフォークを手に取り、恵一はカステラを食べ始めた。
 一口食べて、「美味しい!」と言う。その表情がまた窟屋の興味を引いた。観察するように見ていると、また恵一と目が合う。彼は何故か恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。
 その頬が桜色で――。
 窟屋も幸せな気持ちになる。
 ああ、春はここにあったのだなと――。
 そう思いながら、窟屋は静かにコーヒーを飲んだ。




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秋のイベントで春のSSを配布したおバカですorz

窟屋と恵一は『ルリユールの甘い菓子』に登場するキャラクターです。
あのお話の時間の中のちょっとした裏っかわということで……。
若い子にカステラを出しちゃうのが窟屋クオリティ。