『春雷』裏側のお話。



「大丈夫かなあ……」
携帯電話を握りしめて、春祢は呟いた。随分前にメールを打ったのに、未だに返信がない。何度もセンターに問い合わせてみたが、結果は同じだった。
美術館に向かうバスの車内。湿気で曇った窓ガラスを拭いて、暗く垂れこめる雲を見上げる。雲の隙間には、青白い光が見えた。
――雷、平気だといいけど。
眉根を寄せてため息をついた春祢に、隣に座っていた同級生の寛人が話しかけてくる。
「何だ? どうかしたのか?」
彼は涼やかな目元を細めて春祢の顔を覗き込んできた。
「ああ……うん。ちょっと雷がね」
「やだ、南雲君、雷が怖いの? かわいいー!」
前の座席に座っていた先輩が、振り返って笑う。
「いや、僕じゃないですよ。ちょっと、兄が……」
「南雲君のお兄さんって3年の南雲先輩? すっごい意外!」
「えっと……」
そっちの兄ではなくて双子の兄の方だと言おうとした春祢だったが、結局もごもごと言葉を濁した。こんな話を広めたら、夏葵にきっととても怒られる。しばらく口をきいてもらえないかもしれない。それはとても嫌だった。その点、二つ年上の秋穂なら笑って許してくれるだろう。
「ねえねえ、南雲先輩って他に苦手なものあったりするの? 食べ物とか、動物とか」
興味津々といった顔で身を乗り出してきた彼女の頭を、通路側から伸びてきた大きな手が軽く押さえつける。
「新堂、うるさい。前、向いとけ」
低い声で窘めたのは顧問の藤沢だった。先輩はばつが悪そうに春祢に向かって微笑んでから、大人しく前を向いた。隣に座っていた女子部員と何かを囁きあってクスクスと笑い声を零す。藤沢はそんな彼女から春祢に視線を移すと、「お前も携帯はしまっとけ」と言った。
「あ、すみません」
春祢は素直に頷いて携帯電話を鞄に入れる。
バスは雨の所為か、いつも以上にゆっくり進んでいるように感じられた。春祢は流れる景色を見ながら、双子の兄のことを考える。
夏葵は、雷が苦手だ。
小さな頃、二人で留守番をしていた時に落雷があった。おそらく、それが原因だと思う。
『どうしよう……』
目に一杯の涙を溜めて、夏葵は言った。春祢はその手を握って『大丈夫』と囁いた。
二人なら大丈夫。怖いことも乗り越えられる。そう思っていたから出た言葉だった。
けれど、どういう訳だか夏葵の中ではその言葉を言ったのは夏葵だということになっている。小さな頃は今よりももっと顔が似ていたから、記憶が混乱してしまっているのかもしれない。
春祢はそれでも構わないと思っていた。
自分たちの片方が雷が苦手で、そして二人で手を繋げば怖くなくなるということは変わらないのだから。
ずっとそうしてきたのに……。
雷が鳴っている時に、一緒にいないのは初めてだ。
夏葵は傘を持っていただろうか。今はもう地下鉄に乗った頃だろうか。
春祢はぎゅっと自分の手を握りしめた。
きっとこれは通り雨だと自分に言い聞かせる。すぐに雷も止んで、晴れ間が見えるはず。

やがてバスが美術館に着く頃。
暗い雲の隙間から、ひと筋の光が零れた。
バスから降りた春祢は、空を見上げて息を飲む。
黒い雲。その輪郭を縁取るのは橙色の細やかな光のライン。漏れた光は梯子のように地上へ向かって伸びている。
どれほど絵具を重ねても、春祢には絶対に描けない色彩だった。
瞬きも忘れて見入っていると、軽く背中を叩かれた。
「南雲、ぼーっとすんな」
振り返ると呆れ顔の藤沢が居た。彼はそのまま大股で春祢を抜き去ると、良く通る声で部員を集める。
春祢は慌てて彼の背中を追い掛けた。

end