『人形遊び』Sample

 みしりみしりと、板張りの廊下を歩く音がする。蛍ははっとして居住まいを正した。
 蛍を人形として雇ったのは九条重成という人物らしい。柳田から渡された紙には、この屋敷までの地図と彼の名前だけが書かれていた。蛍はその名前から、初老の男性を想像する。
 金を持て余した、孤独な老人の暇つぶし。
 そう考えれば人間を人形にするなんていう奇妙な遊びも――蛍には何が楽しいのか分からないが――理解出来なくもない。
 廊下を歩いていた人物は、蛍の部屋の前で立ち止まるとすっと障子を開けた。
 てっきり着物を着た老人が依頼人だと思っていた蛍は、現れた人物に驚いた。思わず「えっ……」と呟いてしまいそうになる。
 照明のか細い光は男の顔を十分に照らしてはくれなかった。だが、老人にはとても見えない。この暑さの中で、しっかりとスーツを着込んでいる。
 背の高いその男は後ろ手で障子を閉めた。庭から射しこんでいた月光がだんだん細くなって、そして消える。
 「なるほど、確かに美しい人形だ」
 男は硬質な声でそう言って、蛍を観察するように椅子の周りを歩いた。その姿を視線で追うことは出来ない。人形だから、視線も一か所に留めておかねばならないのだ。
 蛍は息を殺したまま、指先一つ動かせない。
 それは、想像以上に大変な仕事だった。緊張の為か、それとも室内の蒸し暑さの所為か、首筋にじわりと汗が浮かぶ。
 男は観察を終えて蛍の正面に戻って来た。今度は腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。そこでようやく男の顔を見ることが出来た。
 男は髪を後ろに流し、きっちりと整髪料で固めているようだった。蛍はその髪型から、医者や弁護士といった固い職業を連想する。
 すっきりと通った鼻筋。その上にはフレームレスの眼鏡が乗っている。僅かにつり上がった切れ長の目からは、鋭い印象を受けた。
 彼は骨ばった手でそっと蛍の頬を撫でる。薄い唇が、微かに笑いの形を作った。
 「白磁の肌、珊瑚の唇、黒曜石の瞳、か。あの男の例えも、あながち間違ってはいなかったようだ」
 あの男、とは柳田のことだ。
 蛍はそう直感した。ならばやはり、この男が『九条重成』なのだろう。
 満足そうに目を細めてから、九条は膝を折った。どうしたのだろうと思っていると、彼は両手で蛍の左足首を掴む。突然のことに、足の筋肉が強張った。触れていた九条がそれに気づかなかったはずがない。だが彼は何事もなかったかのように平然としている。
 人形が動くはずがないのに……。
 そう考えてから、蛍は心の中で苦笑する。
 相手は蛍が本物の人形でないことなど、百も承知でこの遊びを行っているのだ。瞬きや微かな筋肉の動きはなかったこととして処理されるのだろう。
 蛍は体から僅かに力を抜いた。緊張が少しだけ解れる。
 九条の両手は何度も蛍の足首を撫でた。しばらくしてその手で足袋を脱がされる。
 「ああ、足の指の形もいい……」
 うっとりとした声が聞こえた直後、指先がぬるりとした感触に包まれた。
 最初は何をされているのか分からなかった。ぴちゃりという水音で、足を舐められているのだと悟る。
 ぞわりと背中が粟立った。
 どうして九条が自分の足を舐めるのか分からない。呆然としているうちに、九条の行為はどんどんエスカレートしていく。
 指を舐めていた舌は足の甲を辿り、今度は踝を舐め始める。着物の裾が割られ、蛍のふくらはぎが露わになる。
 こんなことをするなんて聞いていない。止めてくれ、離してくれ。
 何度もそう言おうと思ったのに、喉の奥で言葉が凍る。
 人形だから、喋ってはならない。
 頭の片隅で自分がそう考えていることに、蛍は愕然とした。
 このままでは本当の人形になってしまいそうな気がする。心のどこかが、現実から切り離されていく。
 九条は蛍の足を持ち上げると、ふくらはぎに唇を落とした。感触を楽しむように何度も甘噛みをしてから、また丹念に舐め始める。舌がふくらはぎを往復する度に、体に熱が宿るようだった。
 体の内側。得体の知れない部分から、せり上がってくる熱がある。
 ――怖い。
 体を蝕む熱が怖い。早くなっていく自分の鼓動が怖い。
 「人形は――」
 九条が低く囁く。
 「恐怖を感じない」
 九条の声は不思議だ。硬質なその声の中には、有無を言わせない力が宿っている。
 静かな、だが張りのある声で九条は続けた。
 「人形は自らの意志では動かない。もちろん声もあげない。――さて、お前は人形か?」
 違う、と答えなければならなかった。
 だが蛍の意思とは反対に、体は強張ったまま動かない。唇を開くことすら出来なかった。
 もうきっと人形になってしまったのだ。おそらくは九条が口づけた左足から。
 「なるほど、それが答えか」
 九条は蛍の足を持ち上げたまま、すっと目を細めた。蛍はゆっくりと瞬きをする。体の中で自由になるのは、もうそこしか残されていなかった。
 「人形であるうちは、お前は私のものだ」
 九条は蛍の左足を肘掛の上に置く。着物が捲り上がり、太ももが外気に晒された。九条の舌がそこを這う。
 「――っ!」
 足の付け根を噛まれて、蛍は息を飲んだ。動かないと思っていた体が、びくりと震える。そんな蛍の反応を見て、九条は微かに笑ったようだった。
 「随分と変わった人形だ」


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