『恋、そめる』02

水墨画を描いた人が誰なのか、分からないまま一か月が過ぎた。

先輩たちにそれとなく訊いてみたが、誰もあの絵のことを覚えていないと言う。
「水墨画なんて変わったことを誰かがやってたら、絶対忘れないと思うんだけどなあー」
部長はそう言って小首を傾げた。
「卒業した先輩が知ってるかもしんないしさ、今度訊いておいたげるね」
「すみません。お願いします」
ぺこりと頭を下げる春祢に、部長は口元に手をあててにやりと笑う。
「なぁんでそんなに気になるのかなー? もしかして恋?」
「な、何でそうなるんですか!? ちょっと……印象に残ってただけですって」
そう言いながら春祢は自分の頬がかっと熱くなるのを感じた。
「やだ、南雲君真っ赤だー。可愛いー」
けらけらと笑う部長の頭を、後ろから藤沢が軽く叩く。
「こら、佐々木。部長がうるさくしてどうすんだ。喋ってないで、絵に集中しろ、集中。南雲も、他人の絵なんて気にしてないで、自分のを描け」
藤沢は不機嫌そうにそう言って、春祢の絵を覗き込んだ。その途端に春祢は緊張する。
春祢は少し、藤沢のことが苦手だった。背の高い藤沢は横に立つだけで威圧感があったし、ぶっきらぼうな喋り方は低い声の所為もあってやたらと迫力がある。
藤沢は数秒間無言で春祢の絵を見つめ、「もうすぐ完成か?」と問いかけてきた。春祢は緊張のままに無言で頷く。
「……面白い色だな。悪くない」
絵から春祢に視線を移すと、藤沢は少しだけ笑った。いつもは鋭い目元が、とたんに柔らかなものになる。
何だかとても珍しいものを見たような気がして、春祢はぽかんと口を開けた。藤沢の表情の変化にばかり気を取られていて、何を言われたのかもよく分かっていなかった。他の生徒に呼ばれた藤沢が傍を離れ、ようやく先程の言葉を反芻する。
もしかして、褒められたのだろうか? 
「そうだと……いいな」
心の中がほわんと温かくなっていくのを感じる。
春祢は上機嫌で筆を動かした。使っているのはごく一般的な水彩絵の具だ。美術部に入った時に、新しい画材に挑戦してみようかと思ったが、結局は使いなれた絵の具で描いている。何となく、自分の絵には水彩絵の具が一番合うような気がしたからだ。
春祢が描くのは、大ざっぱにいえば風景画だ。ただ、実際にある風景を描いているのではない。こんな場所があったらいいなと思う景色を描いている、
今描いているのは、桜の並木道だ。
淡いピンク色の桜の木。空に浮かぶ雲も桜の色を移したような色合いだ。雲から射す光は温かなオレンジ。道に落ちた陰には薄いブルーグレー。その影の上には花びらが舞う。
頭の中にある風景がひと筆ごとに形になっていく。まだ技術が拙くて、完璧には描ききれないけれど。
特に苦労したのは光の表現だった。温かな色合いのまま、透明感を出したい。春祢は絵に没頭した。

「南雲」
頭上から降って来た低い声に我に帰る。
「は、はい! ……あれ?」
気がつくと美術室には春祢と藤沢しかいなかった。壁に掛けられた時計を見ると、すでに六時近い。
「随分集中してたなぁー。もう皆帰ったぞ」
藤沢は半ば呆れたようにそう言うと、近くにあった椅子を引き寄せて腰を掛けた。
「どうだ、納得いくとこまで描けたか?」
「あ……はい。すみません、時間に気付かなくて」
「んー、いや、それは構わねえよ。鍵預かってんの俺だし」
組んだ脚の上で頬杖をつき、藤沢はじっと春祢の絵を見つめる。
あまりにも長い間見つめられて、春祢は不安になった。何か悪い部分があるのだろうか。
「あの……?」
「南雲。お前さ、この絵にタイトルつけんなら、何?」
絵から視線をそらさずに、藤沢が問いかけてくる。
「タイトル?」
考えたこともなかった。春祢も自分の絵に視線を落としてしばらく考え込む。
「ふわふわ……とか」
口に出してから急に恥ずかしくなった。『ふわふわ』だなんてとても子供じみている。きっと笑われるだろう。そう思って藤沢の方を振り返ったが、彼は微かに目元を和ませただけだった。
「お前がそう思うなら、これはそういう絵なんだろう。確かにふわふわしてるしな」
「でも……何かもっと……」
「小難しいタイトルの方がいいってか?」
「そうじゃないですけど……」
それにしたって『ふわふわ』はおかしいだろうと自分でも思う。もう少し考えたらそれらしいタイトルをつけられるのではないかと、春祢は再び絵を見た。
「タイトルってのは、テーマなわけ。お前が描きたかったものの名前なんだ」
藤沢がぽんと春祢の肩に手を置く。
「例えばこの絵に、『春の憂鬱』とかつけてみろ。見た人間はこの絵のどこに『憂鬱』が隠れているのか考えなきゃいけねえだろ。見る人間に考えさせちゃダメなんだ。考えさせた時点で描きたかったものが描ききれていないってことだしな。タイトルを言い訳にしちゃなんねーし……。もっと言えば、タイトルなんてもんがなくても伝わるのが究極だと、俺は思うわけ」
春祢は肩越しに藤沢を見上げた。絵についてこんなにも熱心に語る藤沢を見るのは初めてだ。春祢の視線に気づいた藤沢は、少し照れくさそうに笑う。
「俺があの絵にタイトルをつけなかったのは、そういう理由。名前を書かなかったのは、展示スペースがたまたま空いたから描いただけで、本来は俺が出しゃばっちゃいけないからだ。文化祭は生徒のもんだしな」
文化祭のあの絵――?
春祢の頭に今でも鮮烈に残っている……あの絵のことだろうか。
「あの、水墨画……先生が?」
「パンフレットにも載せてないもんを、まさか覚えているやつがいるとは思わなかったけどな」
自嘲気味に言う藤沢に、春祢は思わず叫んでいた。
「覚えていますよ!」
忘れられる訳がない。
天に向かって滝を駆けあがる龍。あの猛々しさを、あの美しさを、忘れられるはずがない。
「強くて、綺麗で……あの雲の影だって、水しぶきの色だって、今もちゃんと覚えてる。――僕は、ずっと……あの絵を描いた人に会いたくて、ずっと……」
ずっと、憧れていた。自分にはない色彩。自分にはない力強さ。
春祢の瞳から、はらりと涙が零れる。
「すいませ……、泣くつもりじゃ……」
慌てて手の甲で涙を拭う。けれど、涙はすぐには止まってくれなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだ。会いたかった人に会えて嬉しい。それが藤沢で驚いた。何でもっと早く言ってくれなかったのかと、恨めしい気持ちもある。気持ちを整理しなきゃと思うのに、涙は止まってくれない。
「お前は、さっきから謝ってばっかだな」
笑いを含んだ藤沢の声は、とても優しい。
怖いと思っていたはずなのに……。
大きな掌がぐしゃぐしゃと春祢の髪を撫でた。もう片方の手が春祢の体を引き寄せる。
「さっさと泣きやめよ。誰かにこんなとこ見られたら、俺がいじめてるみたいじゃねえか」
「す…すいませ……」
胸を貸してもらいながら、春祢はまた謝った。
「だから、謝んなって」
頭に置かれた手が、今度は優しく髪を撫でる。
「は…はい……」
早く涙を止めなければ。
そればかりを考えていた春祢は知らない。藤沢が小さく漏らした呟きを。
「ヤバいよなあ……」
藤沢は春祢の絵を見ながらそう呟いた。
温かな光。柔らかな色彩。その絵の中には幸福がある。
自分の中にない色に、惹かれてならなかった。
染め変えられる。自分の中の何かを――。

恋、染める。

end