『恋、そめる』01


高校に入ったら絶対に美術部に入ろうと、一年と半年前から決めていた。

「美術部の活動は、火、水、木です。活動内容は基本的に自由。何やっても構いませーん。油絵やってもいいし、彫刻やってもいいし、とにかく自由に好きなことやって下さい。えっと、文化祭前の二か月は、部全体で決めたテーマに沿った作品を作ってもらいます。因みに、去年のテーマは『自然』でした」
時々手元のメモを見ながら、部長の佐々木加奈子が言う。入部希望者は春祢を入れて五人。配られたプリントには昨年の文化祭の様子が写真付きで載っていた。
「家に自分の道具がある人はそれを持ってきてもらっても構いません。んー……あと何かありましたっけ?」
佐々木が顧問の藤沢に向かって問いかける。低い声が気だるげに答えた。
「部費」
「あっそか。部費は毎年決まった額を学校からもらっているので、基本的には皆からはもらわないのね。何か必要なものがあったら私か、副部長の野島君か、会計の岩井さんに言ってください。それと、市の美術館あるでしょ? あそこの展示物が変わる度に見に行くことにしてるんだけど、これは自由参加なので部費は使えません。金額は通常なら400円で、特別展示の時は900円だったかな。それだけは負担してください。えっと、次に行くのは――」
佐々木の言葉を聞きながら、春祢はプリントを食い入るように見つめていた。載っている写真は三枚。二枚は生徒の作品で、その内の一枚の下には佐々木の名前があった。もう一枚は卒業した生徒のものだ。残る一枚は展示の様子を写したものだった。教室を区切るパネルとそこに飾られた絵。その中に『あの人』の絵がないかと探してみたが、縮小された写真ではよくわからなかった。
一年半前、春祢はこの学校の文化祭に遊びに来た。春祢と双子の兄の夏葵が中学二年。次兄の秋穂が高校一年の時だ。その年、秋穂のクラスは中庭でカフェを営業することになっていた。
「丁度いいから、昼飯は秋穂のとこのカフェで食おう」
そう言いだしたのは長兄の冬牙(とうが)で、夏葵も秋穂のウェイター姿を冷やかしてやるのだと楽しそうだった。春祢も高校の文化祭を見てみたかった。自分たちの文化祭は出店がないからつまらなかったのだ。
三人で張り切って出かけたはいいものの、冬牙はかつての担任につかまってしまった。夏葵とは校舎内を見て回っているうちにはぐれ、気付けば春祢は一人になっていた。
どうせ昼に中庭へ行くことは決まっているのだと、春祢はのんびりと校舎内を見て回る。
美術部が展示を行っている教室の前を通ったのは、偶然だった。足を止めたのは、春祢も絵を描くことが好きだからだ。
春祢達の父は画家だったらしい。
らしい、というのは父が絵を描いているところを見たことがないからだ。それどころか、春祢は父の絵を実際に見たことすらない。
父はアトリエでしか絵を描かなかった。描いた絵を持ちかえることもしなかった。
その父は今から五年前に他界している。母は春祢が幼い時にすでに亡くなっていたから、家族は兄弟だけになってしまった。
このまま一人ずつ家族がいなくなってしまったらどうしよう。
そんな風に考えて泣きじゃくった春祢を秋穂が抱きしめてくれた。その隣で夏葵も冬牙に同じように抱きしめられていた。兄たちは何も言ってくれなかったけれど、背中に回された手が小さく震えていたことを覚えている。きっと、皆辛かった。
残された絵は、全て人手に渡ったらしい。遺品の整理も葬儀の手配も全て二人の兄がやってくれたので、春祢には詳しいことは分からなかった。
きっともう、一生父の絵を見ることは叶わないのだろう。何となく、そんな気がする。
絵を描いてみようと思ったのは、葬儀からしばらく経った頃だった。後を継ごうなどと思った訳ではない。
ただ、一度も見ることの出来なかった絵を想像しながら筆を運んだ。
そうしているうちに、春祢は絵を描くことが本当に好きになっていた。
美術部の展示は教室を何枚かの板で区切り、本物の美術館のように順路が示されていた。春祢はその順路に従って、ゆっくりと展示物を眺めた。その年のテーマは確か、『幻想世界』だったはずだ。
水彩の優しい色合いで描かれた妖精。油絵の風景画は、空に浮かぶ島とその島にかかる虹を描いていた。その隣には岩の上で歌う人魚の彫刻。それぞれの作品の下には小さなプレートがついていて、作品のタイトルと製作者の名前が書いてあった。
ただ一つを除いて――。
名前のない一枚は順路の一番最後。扉の真横に飾られていた。
画仙紙いっぱいに描かれた、龍。
春祢は息を飲んだ。水墨画の力強さに圧倒される。三つ爪の龍は滝を駆けあがり、雲にその爪をかけようとしていた。空には暗い雲が渦を巻き、今にも雨が降り出しそうだ。
それに、墨の色の深さにも驚いた。龍の鱗、空の色、滝の水しぶき。同じ墨なのに、どうしてこんなにも色合いが違うのだろう。
ぞわりと背中に震えが走った。塗り替えられていく。自分の中の何かが、強く鮮烈に――。
この絵を描いた人に会いたい。強くそう思った。
入口に居た部員の人に聞いてみよう。一度教室を出て入口に向かおうとした春祢だったが、後ろから強く腕をひかれた。振り返った先に居たのは夏葵で、随分探したと怒られた。そのまま引きずられるようにして中庭まで連れて行かれたのだ。
結局その日はあの絵を描いた人が誰なのか分からなかった。けれど、猛々しく美しいあの龍の絵は、ずっとずっと春祢の心に残り続けた。
いつかあの絵を描いた人に会いたい。
それだけを、ずっとずっと思い続けていた。一年と半年前から、ずっと――。