『春雷』 03

どれくらいそうしていたのだろう。
「あ、雨……上がったみたい」
その声で瞼を開ける。長い間目を閉じていた所為か、すこし視界がぼやけた。瞬きをして目のピントを合わせる。その間に、すっと大路の体が離れた。
「ほら、光が射してる」
大路が空を見上げながら言う。鈍色の雲は相変わらず頭上にあったが、確かにその狭間から光が零れていた。夏葵はほっと息をつく。
「良かった……」
思わずそう呟いてから、自分に背を向けたままの大路に視線を移す。
不思議だった。どうして大路は何も言わないのだろう。
夏葵の視線に気付いたのか、大路が振り返った。光を背に、にこやかに笑っている。
「帰ろっか」
まるで何事もなかったかのような態度だ。
「何で――」
ベンチに投げ出したままだった鞄を掴む。立ちあがりながら、言葉の続きを口にするか迷った。出来るだけ歩幅を広くとる。二歩で大路の背を通り過ぎた。大路の顔を見たくない。だから俯いて、早口で問いかけた。
「何で笑わねぇわけ?」
聞こえていなくていいと思った。
雨の所為で鏡のようになった地面。歩く度に跳ね上がった水滴がきらきらと輝いた。後ろから大路が追いかけて来る足音が聞こえる。追いつかれたくなくて足を速めたのに、結局大路はすぐに夏葵の隣に並んだ。ちらりと横目でその足の動きを見る。憎らしいことに一歩の距離が違った。
「笑うって、どうして?」
しかも夏葵の言葉をしっかりと聞いていたらしい。
「いいネタだろ? 雷が怖いとかさ」
投げやりに言った夏葵に、大路は不思議そうな顔を向けて来る。
「どうして僕が南雲君を笑うと思うの?」
「お前な!」
夏葵は思わず足を止めて、大路を睨みつけた。
「入学式の日に、オレのこと散々馬鹿にしただろうが! 小さいとか女みたいだとか!」
怒鳴りつけると大路が微かに首を傾げた。薄く開いた唇から、「あ」と小さな声が漏れる。
「南雲君、あれを気にしてたの?」
「気にしてねぇよ!」
そんな言われ方をされると素直に認める気になれない。何だか自分の心が狭いと責められているみたいだ。
「……気にしてたんだ」
「してねぇっての」
これ以上話していても腹が立つだけだ。もうこいつには構わずにいよう。
再び歩き出そうとした夏葵の手を、大路が掴んだ。
「ごめん、違うんだ。あれは……」
謝るなら少しだけ話を聞いてやろう。
そう思ったのが悪かった。振り返った夏葵に、大路はほっとしたような笑みを浮かべて続ける。
「本当に、可愛いって思ったんだ」
一瞬、夏葵の思考はフリーズした。
「だから、笑ってやろうとか馬鹿にしようとか……そんな風に思ってたわけじゃなくて。ただ、可愛いなって」
どこか申し訳なさそうに、大路は眉を下げる。『王子様』なんて呼ばれている割には、随分と情けない顔だと思った。もう怒る気もなくして、夏葵は軽くため息をつく。
「もういい。分かった。……けどな! 金輪際、人前で可愛いとか小さいとか言うなよな!」
「うん、約束するよ」
大路は大きく頷くと、夏葵の小指に自分のそれを絡める。
「指きり、ね?」
微笑む大路の後ろで、雲間から射す光が揺れる。反射した光は、大路の栗色の髪をきらきらと輝かせた。
何故か夏葵の心臓が、ことりと音を立てる。
「指きりとか、ガキみてえ……」
軽く手を払って悪態をつく。指先が熱い。胸の奥がざわざわとする。
ああ、きっと風邪をひきかけているのだ。あれだけ雨に打たれたのだから、そうに違いない。早く家に帰って布団に入ろう。明日は休みだし、ゆっくり寝ればきっと治る。
「あ、南雲君。ほら見て」
さっさと駅に向かいたいのに、振りほどいた手を再び大路に掴まれる。
「大きな虹」
大路が指さす方向には、見事な半円形の虹。暗い雲はいつの間にかどこかへ消え去っていた。
「春雷、って言うんだ」
夏葵の手を握ったまま、大路が呟く。
「春先の雷のこと。昔は豊作を呼ぶめでたい雷って言われてたみたい」
めでたくなんてない。
急に雨に降られるし、風邪を引きかけるし、めでたいことなんてちっともない。
そんな風に思うのに、大路はにこやかに続ける。
「今日は虹も見られたし、ラッキーだね」
微笑みかけてくる大路から、夏葵は目を逸らした。
風邪はこの僅かな時間で悪化したらしい。顔が熱いのはきっと、微熱があるからだろう。本当に散々な一日だ。
早く家に帰りたい。
そう思いながらも夏葵は、いつまでも大路の手を振りほどけないでいた――。
 

end