『春雷』 02

「うわあ、君小さくて可愛いね!」
そいつの第一声がそれだった。入学式の後、夏葵が黒板に貼られた座席票を確認して、自分の席に着こうとした瞬間だった。ざわつく教室に響き渡るくらいの大声でそう言った生徒は、怒りで顔を真っ赤にする夏葵に爽やかに微笑んだ。
夏葵は身長のことを言われるのが一番嫌いだ。南雲家には、夏葵と春祢の上に二人の兄がいる。一番上の兄は180センチを越す高身長で、すぐ上の兄も175センチはある。父も決して身長が低い訳ではない。それなのに、夏葵と春祢の背はなかなか伸びてくれなかった。
ずっとそのことを気にしていたのだが、入学前の健康診断では夏葵の方が春祢より5ミリ高かった。きっとこれからどんどん伸びて、すぐに兄達に追い付くのだ。そう信じているのに、初対面の相手に小さくて可愛いなどと言われるのは心外だ。
「女の子みたいだって言われない?」
思い切り睨みつけたのに、そいつはさらに夏葵の癇に障ることを言った。人懐こそうな笑顔からは悪びれた様子は微塵も感じられない。それが余計にそいつの印象を悪くした。

こいつとだけは絶対に仲良くなれない。
入学早々、そう確信した相手が目の前にいる。
「すっごい雨だね。南雲君も雨宿り?」
相変わらずの爽やかな笑顔でそう言って、夏葵の隣に腰を下ろす。
「見りゃ分かんだろ」
傘があったらとっくに帰っている。
「そっか、それもそうだよね」
鞄を傘代わりにしていたが、この雨ではほとんど意味がなかったのだろう。栗色の髪から雫が滴っている。
「お前こそ、何でそんな濡れてるわけ。傘に入れてくれるやつくらい、幾らでもいるんじゃねーの? 王子様」
それはクラスの女子が彼に付けたあだ名だった。
モデルのように長い手足。すっきりと通った鼻梁に、綺麗なアーモンド形の目。性格は明るく、運動神経もそこそこで、頭も悪くないとくれば『王子様』という呼び名も頷ける。
もっとも、本人はその呼び名を気にいってはいないようだったが。
「やめてよ、それ。王子じゃなくて、大路だってば」
「いいじゃねーか、王子様。似合ってんだし」
 嫌がっていると分かっているから、あえて言っているのだ。誰がやめるものか。
「もう、ホントに恥ずかしいんだって。王子なんてガラじゃないよ」
ふざけるな、と夏葵は思った。
小さくて可愛いだとか、女の子みたいだとか、夏葵に対して散々言った癖に。王子様の何が嫌なのだ。
それ以上話す気も失せて、夏葵は大路から視線を逸らす。薄暗い雲からは未だに勢いの衰えない雨粒が降り続いていた。その雲の狭間で、白い光が瞬く。
――雷だ。
夏葵は鞄をちらりと見た。中にある携帯電話を取って、春祢にメールしようかと悩む。
春祢は今どこにいるだろう? まだ校舎の中だろうか。それともバスに乗っているのだろうか。もしかしたら美術館に着いているかもしれない。
一番いいのは美術館だ。中に入ってしまえば稲光も雷鳴も届かないだろう。そして春祢が外へ出るまでに、この雷が収まってくれるのが一番望ましい。
春祢は雷を怖がる。子供の頃は、低く唸るような音が聞こえ出すと目に涙を溜めて震える程だった。
切欠は5歳の時。二人だけで留守番をしていたところに、夕立がきた。今でもよく覚えている。途端に暗くなった空。窓を叩く雨粒の音。最初は春祢も怖がっていなかった。空に瞬く不吉な光も、幼い子供には魅力的に映る。窓ガラスに頬をくっつけて、夢中で見ていた。やがて雷が近づき、音は大きくなっていった。バリバリと空を割って、雷が落ちる。もの凄い轟音だった。すぐ近くに落ちたのだろう。
「どうしよう……」
小さな春祢は不安げにそう呟いて、夏葵の方を見た。目に一杯の涙を溜めて。
何が「どうしよう」なのかは分からなかった。意味なんてなかったのかもしれない。ただ、夏葵はその時「大丈夫」と答えた。そして二人で手を繋いだ。そうしていれば二人は大丈夫なのだと、知っていた。
その日からずっと、雷が鳴る度に春祢の手を握り締めて――。
思えば、雷が鳴っている時に二人が別々の場所に居ることは初めてだ。だから余計に心配になる。流石に子供の時のように泣いてしまうようなことはないと思うが、それでもきっと怖い思いをしているのに違いない。
やっぱり、メールしよう。
そう考えた夏葵の指が、鞄の中に入れた携帯電話に触れる寸前。
一際大きな雷鳴が轟いた。
その音に驚いて、夏葵は反射的に目を瞑った。どくどくと心臓の音が聞こえる。少し息が苦しい。携帯電話に伸ばした指先が震えた。
――何で……。
そっと目を開けて、空の様子を確認する。光と音の間隔が短い。雷が近づいて来ているのが分かった。
――何で、オレが震えてるんだ?
雷を怖がるのは春祢のはずだ。夏葵じゃない。それなのに、どうしてこんなに苦しいんだ。これがもし、双子のテレパシーだというなら、春祢も同じように震えているのだろうか。
「南雲君? どうかした?」
声を掛けられて、夏葵は大路の方を振り返った。
そうだ。今はこいつがいる。雷を怖がっているなんて、絶対に知られたくない。知られたら、きっとまた馬鹿にされる。屈託のない笑顔で、『雷が怖いなんて、子供みたいだね』などと言うに決まっているのだ。
それだけは、どうしても嫌だった。そもそも、この恐怖は夏葵のものではないのだから、これで馬鹿にされるなんて理不尽にも程がある。
「何でも……ない」
精一杯強がってみたが、声が震えているのが自分でも分かった。
「でも、気分悪そうだけど……。大丈夫? 濡れてるし、風邪引きかけてるんじゃない?」
「うっせーな! 大丈夫だって言ってんだろ!」
怒鳴り返した瞬間、空が白く光る。今までにない光の強さに、夏葵はひゅっと息を飲んだ。それを吐き出す前に、空が割れる。
「うわっ――!」
夏葵は思わず耳を塞いだ。目を閉じて体を小さく丸める。そうしてから、しまったと思った。こんな所を見られたら、もう言い訳なんて出来ない。
音が収まってからも、夏葵は動けなかった。まだ心臓は早鐘を打っている。体も震えていた。止めようと思っても、夏葵の意志ではどうにも出来ない。そのことが余計に恥ずかしく、惨めだった。
今、夏葵の隣に居るのが春祢なら良かったのに……。実際に隣に居るのはよりにもよって、一番弱みを見せたくない相手だ。
俯いたままの夏葵の隣で大路が動く気配がした。どうやらベンチから立ち上がったらしい。
――何?
耳を塞いでいた夏葵の手の上に、大きな掌が重ねられる。その温もりに驚いて顔を上げると、真正面に心配そうに覗き込む大路の顔。
「大丈夫だよ」
昔、夏葵が春祢に言ったのと同じ言葉を大路は口にした。
「こうしてれば音、聞こえないでしょ?」
ぽかんと口を開けた夏葵に、大路はにっこりと笑う。相変わらず、嫌になるくらい爽やかな笑顔だ。
「――ってか、お前の声聞こえてるし」
ぼそりと呟いた照れ隠しの皮肉にも、大路は笑顔を返してきた。
「そっか。そうだよね。……ええと」
重ねられた手が、すっと遠のく。たったそれだけなのに、遠のいていた雨音が少し近くなった。大路の大きな手には、それなりの防音効果があったらしい。
「じゃあ、こうしよう!」
「え? おい、ちょっと――」
抗議する間もなく、抱きしめられた。
「何だよ、離せっ……て!」
腕から逃れようと夏葵はもがいた。大路は「我慢してねー」と間延びした返事をしながら、夏葵の頭を無理やり自分の胸に押しつけた。
「こうやってれば、空が光っても見えないでしょ? それで、僕の心臓の音聞いて。ゆっくり息して?」
頭上から降ってくる大路の声は、静かで柔らかい。ぽんぽんと背中を叩かれて、夏葵は言われた通りに深呼吸を繰り返した。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。耳には大路の鼓動が聞こえていた。力強いその音に、次第に夏葵の恐怖は薄れていく。
夏葵はそっと目を閉じて、鼓動を聞くことにだけ集中した。稲光はもう見えない。雨音は穏やかなノイズに変わる。雷鳴は時々耳に届いたけれど、背中に置かれた大路の手が夏葵を安心させてくれた。