『春雷』 01

南雲夏葵(なぐも なつき)はイライラと下唇を噛んで、駅までの道を足早に歩いていた。
高校に入学してから2週間。いいことが一つもない。
ケチのつき始めはクラス割だった。一緒に入学した双子の弟とはクラスが離れ、出席番号順で割り振られた席順は、隣のやつが気にくわない。それだけでも最悪だというのに、美術部に入部してから弟は付き合いが悪くなった。
中学まではあれだけオレにべったりだったくせに……。
「あー、もームカつく!」
ため息と共に不満を吐き出しながら、数分前のやり取りを思い出す。

今日は金曜で、美術部の活動日ではないはずだった。だから久しぶりに一緒に帰れると、三つ隣の弟のクラスまで迎えに行ったのだ。丁度帰り支度をしていた弟は、夏葵が声を掛けると不思議そうな顔をした。
「あれ? 夏葵、どうしたの?」
「どうしたのって、一緒に帰るんじゃねーの?」
部活のない日はそうしようと言い出したのは弟の春祢(はるね)の方だ。それなのに、どうしたのはないだろう。
「え、だって今日一緒に帰れないって言ったでしょ? 美術部の人たちと美術館に行くって言ったじゃない」
覚えてないの? と春祢が首を傾げる。自分と同じ大きな目が、ぱちぱちと瞬きするのを見て思い出した。そういえば今朝、そんなことを言っていたような気もする。だがその時夏葵は制服のネクタイを結ぶのに必死で、春祢の言葉なんて耳を通り過ぎていた。ちゃんと聞いていなかった自分が悪い。そうとは分かっていたが、すんなりと納得することが出来なかった。
「じゃあもういいよ。これからも一緒に帰んない方がいいんじゃねー? オレだって予定狂うし」
本気でそんなことを望んでいる訳ではない。ただ、こう言えば春祢は折れるはずだった。今日は一緒に帰れないのだとしても、話を忘れていた夏葵が悪かったのだとしても、春祢は謝ってくれる。今までずっとそうだったのだ。
それなのに、今日に限って春祢は「うん、その方がいいかも」と言った。
「僕もね、時々待たせたりしちゃうから悪いなって思ってたんだ。別々に帰った方が、夏葵も他のことに時間使えるし、そっちのがいいよね」
にっこりと春祢は笑う。悪気なんてある訳がない。それが分かっているから余計に腹立たしかった。
「……そうだな」
声に不機嫌さを潜ませたのに、春祢はそれに気付かないようだった。笑って手を振る弟に背を向けて、夏葵は大股で廊下を歩いた。
双子は心が通じている、なんていうのは嘘だ。ちょっと変わった生まれ方をしたというだけのこと。結局は別の人間なのだから、心が分かるはずがない。
その証拠に春祢はちっとも夏葵のことを分かってくれない。夏葵も、春祢のことが分からなかった。最近は、特に。
イライラしながら校舎を出た時、空は今にも雨が降りそうな鉛色をしていた。今日は折りたたみの傘を持って来ていない。こんな時、春祢は必ず傘を持っている。いつもなら小さな折りたたみの傘を、二人で差して帰るのに。今日はそれが出来ない。
こうなったら雨が降り出す前に家に帰り着くしかないと思った。学校から地下鉄の駅までは歩いて15分かかる。せめて駅まで行けば傘も買えるだろうが、それまで天気はもつだろうか。もう一度空を見て、夏葵はバスを使おうと決めた。バス停までは駅と反対側の方向に歩いて2分。バスの来る時刻が近付いているのは分かっていた。だから足早にバス停へ向かったのに、夏葵の目の前でバスは発車してしまった。バスはあと10分は来ない。これなら、歩いて駅まで行ったところで時間は変わらないだろうと思った。
だから夏葵は今、雨雲に追われるように必死で足を動かしている。駅までは長い長い下り坂だ。一人で歩いていると、余計に長く感じられる。
坂を3分の1ほど下ったところで、鼻先に冷たいものが当たった。とうとう雨が降り出したのだ。思わず空を睨みつけた夏葵をあざ笑うかのように、大粒の雨が降って来る。その勢いは凄まじく、あっと言う間に目を開けていられなくなった。
「……マジ最悪」
呟いた自分の声さえ雨音にかき消される。
雨宿りをしようにも、この周辺にはコンビニすらない。あるのは幾つかのマンションと、その隙間を埋めるように作られた公園だけだ。
「そういえば……」
公園のベンチの上に屋根が付いていたことを思い出す。駅までの道のりを考えれば、そちらの方が断然近い。この雨が通り雨であることを祈りながら、夏葵はそこに向かった。
木製のベンチは湿気を含んでじっとりとしている。それでも、雨が直接体に触れないだけマシだった。時間を確認しようと携帯を見て、春祢からのメールに気付く。
『夏葵、雨大丈夫だった? 傘持ってる?』
文面を見て毒づく。
「持ってねーっつたら、お前迎えにくんのかよ」
返信はせずに携帯をカバンの中に放り込んだ。苛立ちはまだ消えてくれない。
ベンチの上で膝を抱えて、夏葵は長い息を吐いた。
入学してから2週間。色々嫌なことはあったけど、きっと今日が最悪の日だ。
雨はやむ気配もないし、服は肌に張り付いて気持ち悪いし、それに隣に春祢がいない。
それが一番ムカつく。
何をするにも一緒だった。春祢はいつだって夏葵の隣にいた。夏葵は気弱な春祢のことを、ずっと守ってやっていたのだ。
それなのに。
「何で今ここにいねーんだよ」
双子にテレパシーがあるなら、通じるはずだ。傘を持って夏葵を迎えに来て……。それで春祢が一緒に帰ろうと言ってくれたら、夏葵のささくれ立った心も穏やかになる。
けれど、そんな奇跡は起こらない。
夏葵は膝の上に顎を乗せ、ぼんやりと雨を眺めた。公園の土はどうやら水はけが悪いらしい。激しい雨で今や敷地の半分が浅い水溜りになりつつあった。大きな雨粒が地面を叩き、雫を跳ね上げる。雨はまだ止む気配がない。
「寒……」
ぶるりと体を震わせて、夏葵は自分の肩を抱いた。出来るだけ体温を逃がさないように、体を小さくして寒さに耐える。公園の小さな東屋は、夏葵を寒さから守ってはくれなかった。
「ホント、最悪……」
今日何度目になるのか分からないため息をついた時、雨の中をこちらへ向かってくる人影に気づいた。雨に煙る視界では、自分と同じ制服を着ていることしかわからない。鞄を頭の上に掲げ、雨から逃げるようにして走って来る。夏葵の座っているベンチまであと5歩の距離で、俯き加減だったその生徒がふと顔を上げた。それが誰なのかを確認して、夏葵は思わず顔を顰めた。やっぱり今日は最悪の日だ。