『星待ちラプンツェル』Sample


 『星待ちラプンツェル』


 死ぬのは海がいい。
 『青』は狭い世界の中でそんなふうに考えていた。
 海、というものを見たことはない。川の先にあるのだということと、果てが見えないほど広いのだということは人から聞いて知っていた。それを青に教えてくれた人とは、おそらくもう会うことはないのだろうけれど。
 海は、青いのだそうだ。
 水には色がないのに、どうして海は青いのだろう。たくさんの水なら川にもある。けれど川は青くない。川がたくさん集まったら青くなるのだろうか。ならばそれは、どのくらい集まった時から青くなるのだろう。少しずつ色が変わるのか。それともある場所を境にして急に青くなるのだろうか。
 そう考えるうちに、青の想像力は限界を迎える。考えるのに飽きて、青は明かり取り用の小さな窓を見上げた。それは青の背丈よりもずっと高い所にあって、到底手が届きそうにない。けれど空は見えた。あれも、『青』だ。
 空の青と海の青は一緒なのだろうか。海の上で空を見たら、どっちがどっちか分からなくなりはしないのだろうか。少しだけ怖くなって、青は嫌な考えを追い払うように頭を振った。
「今度、訊いてみようかな」
 機嫌が良い時に丁寧にお願いしたら、教えてくれるかもしれない。そう思いながら、青は『彼』の顔を思い浮かべる。もう三日ほどここには来ていない。
「早く来ないかなあ」
 青は退屈だった。身の回りの世話をしてくれる老人は、親切だったが必要以上の話を決してしてくれない。時々、いじわるをされたり、きつい言葉を掛けられたりはするが、それでも彼は青の世界の基盤だった。『青』という名前をくれたのも彼だ。空の色と同じ名前。青はこの名前が好きだった。
「早く来ないかなあ……」
 もう一度呟いて、青は耳を澄ます。
 こちらに向かってくる足音が聞こえはしないかと、期待を込めて――。


※(中略)


 家令と庭師が出て行ってから、久世晃雅は深く長い息を吐いた。
「やっとだ――」
 これでやっとあの庭を見なくて済む。
 長椅子の背もたれに体を預けて、天井を仰いだ。
 晃雅にとってはこの家の全てが呪わしいものだったが、なかでもあの中庭はその最たるものだった。自らの手で草木を抜き、土を掘り返し、見る影もないようにしてやろうと何度も思ったものだった。それをせずにいたのは、久世家の当主としては相応しくない行動だからだ。久世の当主は気が触れているなどと噂されることは避けたかった。そんな形で久世の家名が落ちるのでは、報復にならない。家の名前に傷はつけない。当主として望まれる完璧を演じよう。その上で、父の遺したものをひとつひとつ潰して塗り替えてやる。それもただ更地にして作り変えるのでは駄目だ。外観はかつての姿を留めておかなければ。そして内側からゆっくりと、全てを壊してやる。
 壁にかけられた歴代当主の肖像画。一番右端が晃雅の父のものだ。父が肺の病でこの世を去ったのは三年前。肖像画はそれより数年前に描かれたもので、丸々と太った顔がそこにはあった。えびす顔で、人格者と呼ばれていた父。
「何が人格者だ……」
 忌々しく吐き捨てる。
 晃雅も、晃雅の母も、この男のせいで人生を狂わされた。良いのは外面だけで、本当は誰よりも汚い人間だということを晃雅は知っている。
 その父が、一番大事にしていたのは久世の家の名誉だ。二番目にあの中庭。
「お父さん。貴方の望み通り、家の名誉は守ってやりますよ。もうしばらくの間はね――」
 そう、内側からこの家を食い尽くして父の影を綺麗に消し去るまでは。
「あの世からよく見ていてくださいよ」
 父が死んで三年。晃雅はようやく自分の人生が始まったような気がしていた。
「ああ、そうだ」
 晃雅はふと、自分が飼っている鳥のことを思い出した。今日は気分がいい。あの鳥を構ってやるのもいいだろう。このところ足を運んでいなかったから退屈しているのに違いない。
 

 鳥を飼っているのは敷地の西端に建っている蔵の中だ。他にも蔵は二戸前あるが、それらの蔵とは離れた場所に建っている。用途が違うのだ。
 蔵の戸は三重構造になっている。一番手前は漆喰で作られた重たいものだ。その奥にあるのはケヤキで作られた戸。一番奥は上半分が格子状になった軽い戸だ。それぞれに錠前がついていて、鍵を持っているのは晃雅と家令の柳原だけだ。
 蔵の中にはひやりと冷たい空気が流れていた。晃雅は懐から燐寸(まっち)を取り出し、燭台に火を付ける。橙色の光に照らされるのは、大小様々な形の箱だ。整然と並べられたそれらの中には、さして価値の無い美術品が入っている。
 蔵の二階に繋がる狭い階段の裏側。そこの床面に一つだけ、小さな窪みの入った板がある。その窪みに指を入れて板を外すと、空いた場所に今度は手を入れられるようになった。そこを掴んで持ち上げると、床の一部が跳ね上げ式の戸に変わる。戸の下にあるのは、石で作られた階段だ。金具を固定して戸が閉まらないようにしてから、晃雅は中へ入る。地下はさらに気温が低かった。ゆらゆら揺れる燭台の火に、土がむき出しになった壁が照らされる。そこに手を着きながら、晃雅は慎重に階段を下りた。
この隠された地下を見つけたのは、幼い頃の晃雅だ。父は時々、躾と称して晃雅をこの蔵に閉じ込めた。
 蔵の中は暗くて寒くて――退屈だった。
 不思議と怖くはなかった。暗がりから出てくる化け物などいないと思っていたからかもしれない。退屈から蔵の中探検しているうちに、階段の裏側の床に窪みを見つけた。
その時から、この蔵の本質は晃雅のものになった。
 父はきっと死ぬまで、この蔵の本来の役目を知らなかったのに違いない。
 狭い階段を下り終えると、左手に格子の嵌った部屋がある。そこに晃雅は鳥を飼っていた。この鳥は、この世の中で唯一自分の意のままに出来る存在だ。
 鳥は、眠っているようだった。
 格子に手を掛け、中を覗き込む。
 また髪が伸びたな、と思った。切ってやろうか。それともこのまま伸ばさせようか。そんなことを思案しながら声を掛ける。
「青――」




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