美しい世界。



早朝。まだ日が昇りきらないうちに目が覚めて、春袮は小さく息をついた。
時刻は午前五時半。目覚まし時計はまだ鳴らない。起きるのには早い時間だ。後一時間は眠れる。そう思って目を閉じてはみたが、少しも眠気がやってこない。
「どうしよう……」
布団の中で呟いて、春袮はごろんと寝返りを打った。部屋の反対側にあるもうひとつのベッドからは、規則正しい寝息が聞こえてくる。夏葵はまだ起きそうにない。
どうしてこんな中途半端な時間に目が覚めてしまったのか、自分でも分からなかった。
昨日はいつも通りの時間に寝たし、特別夢見が悪かった訳でもないというのに。
「んー」
このままいつもの時間まで布団の中で過ごそうか。そう考えながら再び目覚まし時計に目をやる。春袮としてはさっき時計を見てから十分くらいは経っているだろうと思っていたのだが、実際には三分しか経っていなかった。
「はぁ……」
眠ることは諦めて体を起こす。薄暗い室内に光を入れようと、春袮は窓際に立った。音を立てないように、出来るだけ静かにカーテンを開ける。
夜を追いやるように、東から空が白んでいるのが見えた。薄い雲。空の青はまだ浅い。
不意に、空に触れてみたくなった。
窓を開けて、深く息を吸い込む。肺の中に朝の空気が満ちていく。それが春袮を満たして、少しだけ空に触れられた気分になった。
何度か深呼吸を繰り返しながら、刻一刻と変わっていく空の色を見る。
そうしながら、春袮は頭の中で絵の具を混ぜていた。
この空の色を、どうやって表現しよう。どんな割合で混ぜればこの色を出せるだろう。青を少し。白は多く。雲の影は灰色を使って、そこに少し紫を入れようか。一番明るい部分の光は薄い橙色にしよう。
けれどどうしても、空気の色が分からない。
見たままの色で絵を描いても、なんだか薄っぺらなものになりそうな気がした。
色は浅いのに、空気は深い。この深みをどうやって表現すればいいのだろう。
「先生なら……どうするかな……」
藤沢なら、この空をどんな風に描くだろう。
水墨画には色がない。目に入ってくる情報量は、絵の具を使う絵よりも少ないはずだ。けれど藤沢の描いた絵には空気があった。
――あんな絵が描きたい。
人を惹きつける力を持った絵を。空気の厚みを感じる絵を。
技術的に成長すればそういう絵が描けるのだろうか。センスの問題なのならば、どうすればそれを磨くことが出来るだろう。
藤沢もこんな風に考えたことがあるだろうか。
もっと彼の絵を見てみたかった。春袮が知っているのはたった一枚だけだ。それもたった一度見ただけ。
他にはどんな絵を描いてきたのだろう。想像することしか出来ないのが虚しかった。
憧れるのに、知らないことだらけで――。
知りたいのに、そこに踏み込む勇気が出ない。
手を伸ばして触れられたらいいのに、と思った。
空に触れるように、彼の心にも――。



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