『Bleed』Sample


 『Bleed』

 世の中は全部クソだ。
 冬の冷えた空気と共に煙草の煙を吸い込んで、リオは目の前を通り過ぎる人々を睨み付けた。
 どいつもこいつもクソだし、生きている価値なんてない。
 そんなことを考えながら煙を吐き出す。
 大晦日の渋谷はいつも以上の混雑を見せていた。リオの隣で人を待っていた女が、相手を見つけたらしい。奇声を上げながら駆け出して、女の荷物がリオの体に当たる。中に何が入っているのかは知らないが、予想外の衝撃と痛みだった。女はリオのことなど気にすることなく、相手の男の前で小さく飛び跳ねている。
「死ね」
 リオは煙草を踏み消しながら呟いた。
 死ね。死ね。死ね。
 この周囲にいる浮かれた奴ら全員死んでしまえ。
 あの女も、相手の男も。
 今目の前を通り過ぎた香水臭い水商売風の女も。
 反対側からやってきた、目に痛い原色だらけの服を着た男も。
 その隣の女も向かいの男も駅から出てきたばかりのおっさんも。
 全部全部死んでしまえ。この世から消えてしまえ。
 そして今一番死ぬべきは、この寒空の下にリオを十五分も待たせている相手だ。
「くっそ……やっぱあんな旨い話があるわけなかったんだ……」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、リオは待ち合わせの場所を動けない。どうせ行く当てなどないのだ。もうしばらく待ってやってもいい。
 リオは、客を待っている。
 出会ったのはゲイ専用のSNSだ。ゲイ同士の情報交換や、恋人や友達作りをサポートするという謳い文句の。
 しかしそういった使い方をしている会員はほとんどいない。実際はリオのような商品と、それを買う人間のやり取りに使われているのが現状だ。
 そのSNSの恋人募集の掲示板に、『大晦日に一緒に過ごしてくれる人、募集』という書き込みがあったのは、十二月二十七日のことだった。
 そこには誰の返信もつくことはなかった。
 だって、必要な情報が何も書いていない。
 場所はどこか。何時から何時までの間なのか。
 それに、金はいくら払ってくれるのか。
 リオは自分を売る相手はしっかりと見極めることにしている。遊びなれていて、金払いがよくて、安全な奴。
 金を渋る奴も嫌だが、どんなに金を積まれても殴られたり縛られたりするのは嫌だ。それは金を払う側だって同じだろう。まず容姿や年齢が自分の好みと合致しないといけないし、何もせずに金だけ持ち逃げされたり、予定以上の金を取られたりしたら堪らない。
 だから皆、最初の書き込みに最低限の条件を書く。
 もちろん大っぴらに書いたのでは運営に削除される。下手をすれば通報されることになるかもしれない。それを避けるために、書き込みには暗黙のルールがあった。それを踏まえて書かないと、誰からも相手にしてもらえない。
 皆、誰かを疑っている。
 相手が自分にとってメリットのある人物なのか。信用出来るのか。危険はないか。
 大晦日に一緒に過ごす相手を募集していた男の名前は『岬 純也』といった。
 今時ネットで本名を使う奴なんていない。リオだって、本名をそのまま使っているわけじゃない。けれどこの『岬 純也』は本名だという気がした。
理由は苗字だ。ネットでの名前なんて個人が認識出来ればそれでいい。少なくともリオと、リオの周りの人間はそう考えている。名前は単純でいいのだ。リオのように本名を少し変えて名前にするやつもいれば、芸能人の名前を勝手につけるやつもいる。苗字だけのやつもいるし、名前だけのやつもいる。けれど苗字と名前を両方使っているやつは滅多にいない。リオたちにとっては、どちらかだけでいいのだ。必要ないから使わない。
こいつはもしかして、このSNS本来の使い方をしたがっている少数の人間なのではないか。
そんな風にリオは考えた。
もしそうなら、いいカモになってくれるかもしれない。
邪な期待をして『岬 純也』の名前をクリックした。そこから彼のプロフィールや日記が見られる。
五月十八日生まれの二十八歳。
趣味は読書。
日記の更新は週に一回から二回。内容は読んだ本とか、その日の気温とか、つまらなくて退屈な文章だった。
それを見て、リオは確信した。これは絶対に少数派の人間だ。
『あなたの書き込み、読んだんだけど』
 リオは掲示板ではなく、直接メッセージを送った。
『大晦日、空いてるけど何か条件とかあるの?』
 返信はその日の夜だった。こんばんは、から始まる馬鹿みたいに丁寧なメッセージの内容は『出来たら一緒に寝て欲しい』というものだった。
 それを見て、リオは爆笑した。
 こんなに直接的に買春を持ち掛けてくるなんて、アホだ。とんでもないアホだ。でも、最高のカモだ。
『いいけど、オレは高いよ』
 そう返せば『いくらですか』と訊いてくる。
 リオと同年代ならだいたい二、三万が相場だ。けれどリオは十万と返した。
次の返信は二時間後。相手からも条件が提示された。先にリオの写真が見たい。それで気に入れば十万払うと言われた。
リオは自分の姿形には自信がある。
163センチの身長は同年代の中でもかなり小柄な方だ。母親似の顔は、瞳が印象的だとよく言われる。幅の広い二重瞼。長いまつ毛は毛先が自然にカールしている。黒目は大きく、吸い込まれそうに思えるらしい。肌の色が白いのも母親譲りだ。そのなかで唇だけが仄かに赤い。
手触りを褒められることの多い髪は、肩の辺りまで伸ばしてある。一瞬、男か女かわからなくなるような、そんな中性的なイメージがリオのウリだ。そのイメージを保つ為に、筋肉はあまりつけないようにしている。中性的というのは、男にも女にも需要がある。自分の商品価値が倍になるのだ。
写真を見た相手からは大抵すぐに連絡が来る。多少の言葉の違いはあっても、返事は同じだ。
 『ぜひ、会いたい』
 今回の相手もそう返してきた。
 大晦日。渋谷に十八時。互いの服装も教えあった。見える範囲に相手はいない。
 リオはもうこれ以上待てないと、スマートフォンを操作した。起動したのは別のSNSアプリだ。こちらは成人であれば性別に関係なく登録できる。もっとも成人かどうかの認証なんてあってないようなものだ。プロフィール作成画面で生年月日を操作すればいいだけなので、リオのように年齢を偽って登録している者も多い。今日の客が万が一来なかった場合に備えて、次の相手を見つけておきたかった。
 リオは別に、ゲイというわけではない。自分を買ってくれるなら男でも女でも良かった。ただ、男相手の方が色々と楽だというだけの話だ。彼らはセックスの間、リオが何もしなくても文句は言わない。それに比べて女は面倒なことが多かった。セックスの間だけじゃなく、その前後にも気分を良くしてやらないといけないし、恋人のように振舞いたがる女も多い。そういうのは、とにかく面倒だ。
「誰もつかまりそうにねえな……」
 大晦日の夜に、都合よく予定が空いている人間なんてそうそう見つかるわけがない。今夜は家に帰りたくはないし、どこかのバーで適当な相手をひっかけようか。
 煙草を地面に投げ捨てて、靴の裏で踏み消した。
「ここ、禁煙区域だよ」
 唐突に声を掛けられて、リオは内心舌打ちをする。こういう風に声を掛けてくるのはろくな相手じゃない。警察とか補導員とか、あとはやたらと正義感が強くて説教したがるタイプの面倒くさい男。そのどれかに違いない。
「あー、すいませーん。もう消したんで」
 リオは吸い殻を拾い上げてその場を離れる。近くの喫煙所まで行って灰皿に吸い殻を捨てた。
「あの……」
 さっきの男に後ろからもう一度声を掛けられる。
「まだ、何か?」
 声に棘があることを自覚しながら、リオは相手の顔を真っすぐ見た。
 背の高い、気の弱そうな男だ。下がり気味の眉をさらに下げて、困ったような顔で笑いかけてくる。例えるならば、気の弱い大型犬。そんな印象を受ける男に、僅かな既視感を覚える。
 どこかで見たことのある顔だ。
「君、リオ君……だよね? 遅くなってごめんね。電車が遅延してて」
「あー……」
 そうか。こいつが今日の客か。どうりで見たことがあるはずだ。SNSのメッセージで写真を見せてもらった。添付された写真ではスクエア型の黒い眼鏡をかけていたが、今はコンタクトなのだろうか。眼鏡をかけていない。だからすぐにはわからなかったのだ。
「岬、さん?」
 確認の為に名前を呼ぶと、相手は少し嬉しそうに頷いた。
「どうも」
 軽く会釈をしながら、リオは岬の服装をチェックする。何年も着ていそうな草臥れたコート。爪先の禿げた合皮の靴。金は持っていそうにない。本当にこんな男が十万も払うのか?
「待たせちゃって悪かったね。お腹、空いていない? 何か食べる?」
「いや、いいです」
 客と食事をする趣味はない。
「さっさと行こ。ホテル、どこ」
 リオのそっけない態度にも岬は気分を害した様子はない。
「そう? 今はお腹が空いていないのかな? 遠慮はしないでね」
「……別に、遠慮とかしてない」
 人の好さそうな顔でにこにこと笑う岬を見ていると調子が狂う。どうもこの男は、リオが今までに相手をしてきた客とは違うタイプのようだ。
 ――いや、そんなことあるわけないか。
 大人は全員信用できない。まして自分を買おうという相手なんて信用できるわけがない。少し違う風に感じられたとしても、結局は同じだ。
リオは商品で、岬は客。
それ以外の関係なんてないのだし、そこは今までの相手と同じだ。
「じゃあ、行こうか。少し歩くけど、ごめんね」
 リオは軽く頷いて、岬の少し後ろを歩いた。
 渋谷のラブホなんてどこでも同じだ。はぐれてしまわないようにだけ注意して、草臥れたコートだけを見て歩く。そんなリオのことを、岬は時々振り返った。ちゃんとついてきているか確認するように。隣を歩け、とは言われなかった。最初の会話以外、話しかけてくることもなかった。気安くあれこれと話しかけてくるタイプは嫌いだから、リオとしては岬の態度はありがたい。
「……ん? あれ?」
 首都高の高架下を横断しようとしたところで気が付いた。
「なァ、ちょっと。あんた、方向間違えてない?」
 周りを見ずに歩いていたリオも悪いが、そういうホテルがある場所とは方向が全く違う。
「え? いや、こっちであってるよ」
 振り返った岬は困惑気味にそう答えた。
「だって、全然……」
 リオはスマートフォンを取り出して地図アプリを起動する。現在位置を示す矢印を確認してから指をスライドさせた。
「そっち側じゃなくてさ、一旦駅に戻って――」
「ん?」
 画面を見るために岬が顔を寄せてくる。不意に詰められた距離に、リオは少し体を引いた。
「そっち側にもホテルってあったんだね。僕、あまり詳しくなくて。でも予約したホテルはこっち側で合ってるから、大丈夫だよ。ほら、ここからでも見える」
 岬はそう言って、首都高のその先を指さす。
「は?」
 そこに見えるのは超高層ビル。三年前にオープンした五つ星ホテルだ。
「……マジで?」
 岬は笑って頷く。
「僕も初めて泊まるんだ。楽しみだね」
 再び歩き出した岬の背後を、リオは先ほどよりも間隔を空けて歩いた。
 どう考えても、岬があのホテルに泊まれるような金を持っているとは思えない。
 シングルルームで一泊二万から三万。年末年始はもう少し高いのかもしれない。リオだってあんなところに泊まったことはなかったから、全部想像にすぎないけれど。
 ――いや。
 一晩に十万も払う人間だ。もしかしたら着るものに無頓着な金持ちっていう可能性も捨てきれない。とても低い可能性だけれど。
 岬は、いたって普通の男のように見える。
 平均的な職業に就いて、平均的な収入を得て、平均的な暮らしをしている。そんな風にしか見えなかった。
 だからこそ、おかしな金の使い方をしている岬に不信感を抱いた。



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