『あなたのこと、ぜんぶ』Sample


 『あなたのこと、ぜんぶ』

 「お前が好きだからだよ」
 言われた言葉の意味を理解して、かっと頬が熱くなる。
「な、何言ってるんですか」
 珍しく真剣な顔で考えたかと思えば、出てきた言葉がこれだ。
「お」
 面白いものを見た、というように野辺が眉を上げる。
「赤くなった。可愛いな」
「ふざけないでください!」
 これでも野辺には申し訳ないことをしたと思っているのだ。ケガのことも本当に心配している。それなのにどうしてこの男の口からはこんな言葉しか出てこないのだろう。
「ふざけてる訳じゃないけどな。好きな子が殴られそうなら、とっさに庇うもんだろ?」
 恋愛経験のない秋穂にだってそれは理解出来る。好きな人を大切な人と置き換えて考えれば。例えば弟たちがケンカに巻き込まれていたら、秋穂だって野辺と同じように行動しただろう。分からないのはそこではない。この男が自分を好きだという、そのことが理解できなかった。
「だって、理由がないじゃないですか」
「は?」
 野辺とは週に数回、店で顔を合わせる程度だ。その度に可愛いだとか面白いだとか言ってくるが、それは秋穂の反応を見て楽しんでいるだけなのだと思っていた。秋穂は野辺が普段何をしているか知らないし、それは野辺だって同じだろう。
「僕を好きになる理由がありません」
「好きになるのに理由はいらないだろう?」
「いります」
 少なくとも秋穂にとっては。
「何にだって理由はあるでしょう?」
 なんとなくとかいう曖昧なものは理由にはならない。話しているうちに自然と好きになった、というのも男女間でならあるだろうが、秋穂は男だ。それに第一、野辺と中身のある会話をしたことがない。
 認められない、と思った。
 秋穂からすれば、野辺が自分を好きなる理由が分からない。理由が分からない以上、好きだという言葉も信用できない。当然、「好きだから庇った」という言葉も――秋穂の反応を見るための冗談なのではないかと思う。
「理由、ねぇ……」
 野辺は顎髭を撫でながら思案顔だ。すぐに言えないところを見ると、明確な理由はないのだろう。つまりそれは、たいして好きではないということだ。
 理由のない「好き」は信じられない。
 秋穂でなくてもいいのだ。
 そう思うと腹が立った。
 野辺も結局、今まで秋穂に告白してきた人たちと同じだ。
 そう考えて、ふと疑問を覚える。
 まるでこれでは、野辺に何か期待していたみたいではないか。
 ――違う、そうじゃない。
 腹が立つのは、そんな訳の分からない動機で秋穂を庇ったからだ。本気で好きなわけでもないのに、秋穂を庇ってケガなんてするから。
 あの時、自分は殴られてもよかった。それで丸く収まるのなら構わなかったのに。野辺が秋穂を庇うから、こんなもやもやとした気持ちを抱えるはめになったのだ。
「僕が言いたいのは……理由もなく好きだって言われても信じられないし。それにそんなことで庇ってもらっても、正直迷惑なんです。頼んでもないのに、ケガまでして……」
 ――ああ、今嫌なことを言っている。
 もっと他に言葉があるだろう。言わなければいけないことは別にあるだろう。
 そう思うのに、言葉が止められない。野辺と話しているとどうしても冷静さを欠いてしまう。リズムが狂うのだ。感情的になって、言わなくてもいいことまで言ってしまう。
「今度もしこういうことがあっても、庇ったりしないでください。困りますから」
 勢いに任せて言い切った後、秋穂の胸に苦いものが広がる。自分でも最低だと思った。本来なら、庇ってもらったことに対して礼を言わねばならないのに。それなのに、真逆のことを言ってしまった。
「うん、分かった」
 野辺は小さく頷く。秋穂に対して怒るでも呆れるでもなく、ただ頷いたのだ。自分がとても卑怯な人間になった気がする。
「あの、でも――」
 助けてもらったことは感謝しています。ありがとうございました。ケガをさせてしまって申し訳ありませんでした。
 そう言わなければならなかったのに、またしてもタイミングがずれた。
「運命だからだな」
 何故か偉そうに、胸を張って野辺が言う。
 一体この人は何の話をしているのだろう。思考が追いつかず、秋穂はぽかんと口を開けた。
「理由がいるんだろ? お前を好きだってことにさ」
 なら運命だ、と野辺は言い切った。
「お前は信じないかもしれないけど、理由もなく惹かれるってことはあるんだよ。気になって気になって仕方ないことが、さ。恋愛って理屈じゃないだろ? それでもどうしても理由が必要だっていうなら、そういう運命だからとしか言いようがない」
「運命、なんて……」
 それは、秋穂が一番嫌いな言葉だ。『運命だから』という言葉の後には必ず『仕方がない』と続くのだ。それは、自分以外の何かに責任を押し付ける言葉だろう。
「信じません」
「お前なぁ……」
 野辺はがっくりと肩を落としてため息をつく。
「あー……分かった。お前アレだろ」
 何を思いついたのか、彼はふっと笑う。嫌な笑い方だと思った。こちらのことなど何でも分かっているのだと言わんばかりの。
「恋愛、したことないんだろ」
 それは疑問形ですらなかった。
「本気で人を好きになったことないんだな。だから理由がないと不安なんだ」
 野辺の言うことは、半分当たっている。
 秋穂は告白をされたことはあっても、自分から誰かを好きになったことはなかった。だから恋愛をしたことがない、というのは当たっている。けれどそれは自分に必要がないことだったからだ。今も、必要ないと思っている。
だが理由がないから不安だというのは違う。秋穂は物事には順序があるのが普通だと思っている。恋愛感情を抱くなら、それ相応のきっかけというものがあるはずだろう。それを口に出して言えないのはおかしいと、そう思っているだけのことだ。
 ただ、秋穂のこの考えを野辺に説明するのは億劫だった。野辺と自分の感覚は大きくズレている。その感覚のズレを言葉で埋めるのは、ひどく骨の折れる作業だと思った。それに、説明したところで野辺が理解してくれるとは限らない。なら、無駄な労力を使うよりも誤解させたままでいるほうが楽だ。
「そう思いたいのならご自由に」
 ――どうせ関係ないし。
 野辺が秋穂の恋愛観をどう解釈しようが関係ない。そう思いたいのなら思っていればいい。秋穂には一切不都合はなかった。野辺が何と言おうと、自分が彼のことを好きになることなんてないのだから。


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